燃え尽きる夜のルーチェ

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しばらく前から付き合い始めた著名な脚本家に、バカンスに誘われた。
8月の数週間をトスカーナの田舎で過ごさないかと。
私にしてはめずらしく、長続きしている人だった。
彼と寝ているのは、けっして役を貰いたいからではない。

妻と娘は田舎がきらいだから、
一週間もすればサルデーニャの海辺のホテルに行ってしまう、
だからそのあとは二人で過ごせるよと、脚本家は言った。
それは決していやな言い方ではなかった。

妻を愛してはいるが、
それだけでは僕の人生は砂を噛むような毎日で終わる。
どうせ死ぬんだ、君と豊かな果実を味わって地獄に落ちるなら、僕は本望だね。
脚本家が私に言った言葉は、まるで芝居のセリフのように響いた。
そう指摘して笑うと、こんな臭いセリフ僕は書かんよと、彼も笑った。

それで私たちは、芝居の中でのように会話を交わすようになり、
時おり舞台のベッの上でのように、体を重ねた。
それは現実感のない不思議な関係で、そのことが私を安らかな気持ちにさせた。

毎年シエナの近くの農園を1ヶ月借りるんだ。
プールサイドでトスカーナの太陽をたっぷり浴びる、どうだい? 
陽に焼けるのがいやだと言うなら、
ぶどう棚の下で風に混じるラベンダーの香りを嗅ぎながら、ワインを飲もう。

トスカーナ……、行ったことがないのに懐かしい地名だった。
プールやぶどう棚やラベンダーの風は、
いつもよりさらに芝居めいた言葉に聞こえた。
それも好ましくて、私は脚本家の誘いに乗った。

フィレンツェの空港まで、脚本家は迎えに来てくれた。
市街地を抜けると、樹木が並ぶ丘が現れた。
銀色に輝くこんもりとした木に見とれていると、
オリーブだよと教えてくれた。

オリーブが点在する丘をいくつか超え、
みずみずしい葉を茂らせた低い丈の木が、
きれいに畝を作っているたくさんのブドウ畑を過ぎた。
ブドウ畑を実際に見たのは初めてだったが、
畑の木がブドウだということはすぐにわかった。
同じような風景を、あなたの部屋のワインの雑誌で、何度か見た覚えがあったから。

車はなだらかな稜線に沿って糸杉が並ぶ並木道に入った。
突き当りが農園だった。
農園のことはまたの機会に話すことにしよう。
あなたはトスカーナと聞いて、きっと農園よりもワインのことが、
気になっているだろうから。

モンタルチーノという、小さな、要塞に守られた街に行った。
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノという名前のワインの産地として、
とても有名なところだそうだ。
きっとあなたは、私や脚本家などよりはるかに詳しく、
このあたりのことを知っているに違いない。

大統領主催の晩餐会なんかに出されるワインだよと、
街のメイン・ストリートにあるワイン・バーで、
脚本家は大きな丸いグラスに注いだワインを飲ませてくれた。
グラス一杯の値段が、私がすこし奮発して週末に飲む、
ボトル一本の値段と同じだった。

とても濃い味のワインだった。
味わいはどっしりとしているのに香りは繊細で、品があった。
長い歴史を誇る家柄の、生き字引のような老貴婦人が、
まだ結婚する前の恋の話を静かに語ってくれているようだった。

あのときの恋人の笑い声を、私はまだ覚えているのよ……。
老婦人は幸福な時をワインに封印し、
その話を、黙って耳を傾ける女にだけ、明かしてくれる。

グラスから、光沢のあるシルクのような舌触りのワインを口に含むたびに、
やがて秘め事を打ち明けられた女も、いつしか語りだしている。
私にも幸福なときがあったの、その話をしてもいいかしら……。
グラスの中の老婦人は、ふくよかな笑みを浮かべて、頷いてくれる。

通りに並べられたテーブルを離れて、店の奥のワインショップに入ってみた。
立ち飲みでワインを飲ませるカウンターがあり、
デイリーワインらしい値段のボトルが、ワゴンや棚に並んでいた。
地下に降りる階段を覗いてみると、ワインカーブになっていた。
店員が、どうぞ地下もご覧ください、
ワインはお宅まで送ることもできますよ、と言った。

海外でも? 私が聞き返すと、
もちろんです、航空便で、何本でも、と答えた。
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノだけではなく、
たくさんのワインが並んでいた。
店内にあるものより、値段は高めだった。

棚に整然と寝かされているワインの他に、
木箱に入ったままのワインもあった。
それらも、ケースで売っているというわけではなく、
一本づつでも買えるようだ。

ある箱の前を通り過ぎたとき、かすかに、
遠い記憶の中のシーンが浮かびかかった。
私は振り返り、その箱の前まで数歩戻った。
箱の側面に茶色で刻印されたイラストが目に飛び込んできて、
円形に放たれた炎の絵柄が、かちりと、記憶のシーンに嵌った。

箱に記されたビンテージは2000年だった。
私は階段の下から店員に声をかけ、1995年のルーチェがあるかと聞いた。

あの頃、劇団の給料はとても少なかったから、
あなたのバースデーに、プレゼントを買うお金がなかった。
私はあなたの一番仲のよい友人に相談した。
彼は私にとっても、もう何年も前から親しい友になっていたから。

オレはグラスを買う、おまえはワインを買え、
金は貸してやる、そう友人は言った。
私はすでにたくさん彼にお金を借りていたから、
それが少しぐらい増えてもたいして変りはなかった。
あなたはそのことを、知っていただろうか。

私は一人で、ワインショップに行った。
ワインアドバイザーと名乗る人がいて、色々なワインを勧めてくれた。
私は、夏に飲むにはどの赤ワインがいいのかと尋ねた。
アドバイザーは、それなら熱い国のワインでしょうと、
何本かのワインを私の前に並べた。

ルーチェは、瓶の形が少しだけ他のワインとちがって見えた。
でもそれはラベルのせいだったかもしれない。
高い位置に、丸く炎を拡散させているラベルが貼られていた。
炎は金色で、真ん中の朱に染められた円のなかに、
やはり金でLUCEと文字が浮き上がっていた。
私はそのラベルだけで、ルーチェを選んだ。

このワインのように、あなたに飲み干されたいと思った。
このラベルのように、あなたと一緒に、炎を上げてみたいと思った。
あなたの中に永遠に生きること、それが叶わないなら、
あなたと共に消滅することが、あの頃の私の夢だった。
私があなたに永遠に刻み込まれるその瞬間、
あるいは私があなたの中で燃え尽きるその瞬間に飲むワインは、このルーチェだ。
私はそう確信して、予算をはるかにオーバーしたそのワインを買った。

数年前から少しずつ入るようになった、
まったく新しいトスカーナのワインなんです。
公式にはこれが初ビンテージですが、飲み頃はおそらく2008年頃……。
差し出されたワインは1995年のものだった。

マダム、それでしたら97年がおすすめですよ。
いつ降りてきたのか、店員がすぐ近くでそう言った。その後には脚本家もいた。
いいえ、95年のものがいいんです。
言い張る私を、脚本家は不思議そうに見た。
高いワインを欲しがることも、そんなふうに何かに拘ることも、
普段の私にはないことだった。

知らなかったよ。君がそんなにワインが好きだったなんて。
脚本家がカードを取り出しながら言った。
95年をひとケース、貰うよ。それと今夜用に一本……。

いいえ、今夜のためにはあのブルネッロがいいわ。
サルヴィオーニの99年。
それからルーチェは二本、一本は持ち帰ります。
一本は日本に、送ってください。
私は財布を取り出した。このあと数ヶ月の切り詰めた生活を覚悟しながら。

その夜、サルヴィオーニのブルネッロを飲みながら、
私は脚本家に言った。
来週二日ほど、一人でフィレンツェで過ごしたいわ。
私にはホテルのあてなどなかったから、どこか静かなところを探すのに、
脚本家の助けが必要だった。だから少しだけあなたのことを話した。

とても愛したひとがいたの。
あまりに愛しすぎて、私は彼の他にも男が必要だったくらい。
だって私の想いを全てぶつけたら、彼はひどいやけどを負ってしまうから。

その男への愛に、君は一度燃え尽きてしまったのか。
ようやくわかったよ。
だから君は、日常では半分死んだようにひっそりとしているくせに、
舞台の上に立つと、あんなに、
まるで低い温度で沸騰しているような熱を、放つのか。

脚本家は電話でホテルを予約してくれた。
私はそれからもいつもと変らずに脚本家と寝た。
きっとあなたもそれを望んでいるだろうと思った。

私が、自分もあなたも焼き尽くすほどの炎に耐え切れずに、
他の男と寝るのを、あなたはいつも黙って見ていてくれた。
あの頃と同じように、今も、
あなたはそんな私をやさしく抱きしめてくれるだろう。
全ては激しすぎるあなたへの欲望ゆえのことだと、あなたは知っていた。

今日、脚本家が車でフィレンツェまで送ってくれた。
ホテルはアルノ川を超えた対岸の岸辺にあり、
屋上のテラスからは花の聖母寺院の大きなドームが見える。
私は夕方からずっとテラスに座っている。

やがてドームは、
明るいオレンジから徐々に濃いガーネットの色に染まっていった。
乾いた空気はドームと同じ色を帯び、
ポンテベッキオやグラーツィェ橋を
ネックレスのアクセントのようにはめ込んだアルノは、
にび色に光っている。

私は川から登ってくる心地よい風に向かって、
ルーチェのグラスを掲げる。
乾杯。あなたの36歳に。

あのとき、ルーチェはまだ若すぎた。
私たちの共通の友人は、一口飲むと顔をしかめた。
クリスタルの大ぶりのグラスの中で、ルーチェは黒っぽい紫の、
開いたときにどんな色の花になるのかも分からない、重くて固い蕾だった。
舌の奥に残るざらついた渋みは、
深い眠りから突然揺り起こされた不機嫌な少女のようにとがっていた。

うまいよ、あなたは、でもそう言った。
熱く、激しい情熱を秘めたワインだ。
本当に目覚める2008年まで、毎年一本づつ飲むことにしようか。
この少女がどんな女になるのか、それを見届けるのも悪くない。

けれども私は、あのあとすぐにあなたの元を離れることを決めた。
次の年に同じワインを飲んだのかどうか、もう覚えていない。
覚えていないのはそのことだけではないけれど。

私は恐れ、逃げようとしていた。
あなたの中から私が薄れていくその瞬間を、見たくはないと。

私たちの友人は言った。
おまえ、ちょっと働きすぎじゃないのか。
劇団の給料が安いからって、そんなに昼夜バイトに明け暮れてちゃ、
からだも気持ちも病気になる。

私は彼の忠告に従い、彼の申し出を受け……。
それからの日々を、私はほとんど忘れてしまった。
そしてもっと、全てを忘れようと、日本を離れた。
本当に離れたかったのは、あなたからだ。
私は心だけを残して、肉体をあなたから引き離そうとした。
そうすることが、あなたの中に永遠に私を刻み付けることになるのだと、
思っていた。

私の中からあなたが消えないように、
あなたの中の私も、まだ消えずにいるだろうか。
あなたは毎年この日に、1995年のルーチェを、飲んでいるだろうか。

ルーチェか、奮発したな。
あなたはあの時とても喜んでくれた。
ボルドーのシャトー・ムートンとカリフォルニアのモンダヴィが、
旧大陸と新大陸のエキスを混ぜ合わせたようなワインを作った。
オーパス・ワンだ。

ルーチェはトスカーナのフレスコバディとモンダヴィの合作で、
オーパス・ツーとも言われている。
いつか飲みたいと、思っていた……。
あなたの声が、グラスの中で揺れる。

掲げたグラスは、ドームとほとんど同じ色だ。
かつてすこしも光を通さなかった濃い紫は、
今や熟成の果ての華やかな紅に姿を変えていた。
そのガーネットの液体は、薄いグラスとの狭間で、
スポットライトのような華やかな光をまとっている。
ルーチェ、私の光……。

いつの間にか夕闇があたりを満たしている。
テーブルにキャンドルが灯された。
1995年のもう一本のルーチェは、無事にあなたの元に届いただろうか。

きっとあなたは、もうその栓を開けただろう。
たぶん6時間か、7時間前に。
そのときあなたの向かいに、私たちの親しかった友人はいただろうか。
あなたの隣に、私の知らない女の人がいただろうか。
それともあなたはたった一人で、この瞬間、
どこかのバーの片隅で、あるいは一人の部屋で、私のことを想いながら、
グラスを覗き込んでいるだろうか。

ガーネットの液体を口に含むと、
熟した果実の香りも一緒に、体の中に入ってくる。
その香りがずっと消えずに私を満たしていく。

森の入り口に一本の低い潅木があって、その黒々と闇を湛えた葉の影に、
果汁をたっぷりと含んだ小さな赤い実がついている。
摘み取るのを忘れらたその実は、
夏の強い陽射しが丘の木々の縁を黄金色に染めて沈んだあと、
自らの重みで皮を破る。

まるでこれから訪れる夜に捧げられた贈り物のように、
香りが燃え立ち、広がる。
ずっと押さえつけられていたものが、ようやく解き放たれたように、
香りは広がっていく。

あのときは固く閉じて、
どれほどあなたがデキャンタージュしても少しも開いてくれなかったのに、
今はふっくらと華やいで、
誰にも触れられなくとも大気にその香りを放っている。

夜の森に残像を残す太陽の、金の炎のような、
私の、あなたへの、これは想いなのだ。
時を経て私の愛は、これほど抑制の効いた炎になった。
ちろちろと、その炎がわたしを舐める。

テラスから見下ろす教会の大小のドームや尖塔が、
ライトアップされて暗闇の中に浮かび上がった。
あなたが私をどんなふうに愛撫してくれたかを、私は思い出している。

あなたの指、骨ばった長いあなたの指が、
どれほど優しく私の肌の上を滑ったかを。
私の皮膚の窪みで、その指が、
どれほど名残惜しげに羽のように動いたのかを。

ガーネットの液体が、唇を湿らせ、舌を潤し、のどを焦がす。
やがてそれは私の血の中に入る。
すると私の血は静かに泡立ち始める。
ふつふつと泡は、あとからあとから生まれてくる。

光を放ちながら泡立つ液体を、あなたは唇で受ける。
私の血を、あなたの舌がゆっくりと味わう。
燃え尽きて、ただのグラス一杯になった私を、
あなたは飲み干す。

 

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