5-02 ラ・マスケラ―仮面― 第五章 ii

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<第五章>  "ラストシーン " 

      ii


ディーとミーナが館の中庭から空港に向かうシーンと、
空港でルイジの事故を知らされ、
ミーナがヴェネツィアに残ることになるシーンは、ナミが書き上げた。

あとはラストを残すのみとなっていたが、
その前にジンはダンドロと話したかった。

『きっと誰も、何もしなかったんだと、今は思っているわ』 
ナミのその言葉がずっと消えずにいる。

何かをした可能性は、ディーにだけあるのではない。
ひっかかっていたのに、数多くの疑問の影にかくれていた事があった。
フランコの空港への電話だ。

脊髄の損傷と半身不随は、単に最悪の予想を伝えただけだと、言えなくはない。
だが彼の電話が、あれほど素早かったのは不自然ではないか。
フランコのミーナへの想いは、カプリで突然芽生えたのではないだろう。
以前からミーナを想っていたとしたら……。 

可能性はミーナにも言える。
ルイジに追われることを恐れる気持ちは、むしろディーより強かっただろう。
ミーナは彼のボートによく乗っていたし、ボートの操作も知っていたかもしれない。

そしてダンドロ本人。
ミーナを自分の傍らにとどめるために、大芝居を打ったということはないか……。


ナミの了解をとりつけ、ジンはダンドロに電話をかけた。
場合によってはカプリまで行くつもりだった。

電話には女が出た。
なまりのある英語ですぐにかけ直すといわれ、
実際ほんの10分ほどでダンドロ本人から電話がかかってきた。

「ナミから話は聞いている。シナリオも、読ませてもらったよ」
ダンドロの声は、予想していたより低い、深みのある落ち着いた声だった。

「ナミさんが、ルイジがあなただとわからないようにと、あのような設定に……」
「仮面の後ろに、私をすっぽりと隠してくれたね。
気遣いはうれしいが、そんなことはどうでもいいことだ」
「どうでもいい?」 

少し投遣りな調子に、違和感を覚える。
ダンドロはプライドの高い、自分のイメージが損なわれることを、
頑として拒否する男ではなかったのか?

「いや、今のはここだけの話にしてくれ。ナミには感謝していると……」

ダンドロは、ナミが描き出した男の姿とはなにかが違っていた。
館の中庭を撮影に使いたいというのにも、あっさりと許可を与えてくれる。
どこと特定できるような撮りかたは絶対しないからと、
あえて断る必要すらなかったかもしれない。

「他に、知りたいことは?」
ひとつだけ、ラストシーンのために確かめておきたいことがある。
だがそれを、ジンは面と向かって問いたかった。
短い会話を交わすうちに、猛烈にダンドロに会いたくなってきてもいた。

「あとはお会いして、うかがいたい」
「私はかまわんが……」

カプリ島は遠い。列車と船を乗り継いで行くとなると、
それだけで一日が必要だ。
ヴェネツィアの空港からナポリまでちょうど良いフライトがあったとしても、
その先はやはり時間がかかる。

クランクインを間近に控える今、少しの時間のロスも痛かった。
だが場合によっては、
シナリオが完成しないまま撮影に入ることもやむを得ないと、腹をくくる。

「明日でよければ、ローマに出る用事がある。
少しなら時間をとれるが……」
ダンドロの提案に、ジンは即座に飛びついた。


翌朝、ヴェネツィア・サン・マルコ空港の国内線ゲートの前で、
ジンは搭乗が開始されたのを横目に見ながら、携帯電話を握っていた。
電話が繋がった。

「すみません、今日の昼食の約束ですが……」
「いいわ、夕食に振り替える?」
まだベッドの中だったのだろう、ナミの声は少し眠そうだ。

「少し遅らせてもらえれば……」
「わかった、何時がいいの?」
「2時、いや2時半なら戻って来られる」

搭乗口で、空港スタッフが早くしろとジンを促している。
電話を耳に当てたまま搭乗券を渡し、半券を受け取り、バスに乗り込む。
「あら、どこに出かけるの?」

バスの乗客が、最後に乗り込んだジンに、
心なしか苛立ちの視線を向けているように思える。
ジンは窓の外を眺めた。

ディーが一人で飛び立ったとき、空港はまだ改装前だった。
ロビーやターミナルは、あの頃とはすっかり違っているだろう。
だが滑走路に向かうバスの周りの景色は、そう変わらないはずだ。

灰色のコンクリートの、まるで海のように広々とした、
どこに道筋があるのかわからないような平面を、
それでもバスは決められたルートをたどって進んでいく。

「ローマまで」 
「ローマ? あなた、今どこにいるの?」 
ナミの声のトーンが上がった。

「空港です。ローマでダンドロ氏に会ってきます」
「ルイジに? ちょっと待って、私も行くわ」 
きっとナミはそう言うだろうと、思っていた。

「これから離陸です」
ナミが絶句している。

「戻ったら、ゆっくり、話します」

機内に乗り込むタラップを上りながら、
ジンは電話を切り、同時に電源もOFFにした。


チャンピーノ空港には国内はもとより、
ヨーロッパ各国からのチャーター便や格安便が乗り入れている。
だが空港施設はローマ第二の国際空港とは思えないほどこじんまりとしており、
雰囲気ものんびりとしていた。

荷物のないジンはすぐにタクシーに乗り込むと、
指定されていた、市内に向かう幹線道路沿いの店の名を告げる。

そこはヘリポートに隣接したセルフサービスのカフェ兼レストランだった。
ダンドロはローマで数日を過ごすために、
カプリからヘリコプターで到着しているはずだ。

店内には、カウンターの前で簡単な朝食をぱくついている者がほとんどで、
片隅のテーブルにすわる初老の男と、
長いストレートの黒髪の東洋人の女のカップルは目立っていた。

男がゆっくりと立ち上がった。
右手を杖に預けている。車椅子はなかった。

名乗りあい、挨拶を交わす。
テーブルにつくと、女が何か飲み物でも? とジンに尋ねた。
電話で聞いた訛りのある英語だった。

オレンジジュースをと言うと、女はダンドロには何も尋ねずに、
セルフサービスのカウンターに向かう。

キッチンにつながる窓口に声をかけ、
シャンパンとシャンパングラスを二つ受け取る。
オレンジジュースの瓶ともうひとつグラスをトレイに乗せ、
さらにフルーツやタルトを何種類か選んでいる。

女はナミが描き出したアンジェラとは、やはり違っている。
もっとふくよかな女を想像していたが、
すらりとした細い腰をしていて、年齢も定かではなかった。

やはり女を目で追いながら、ダンドロが言った。
「アンジェラは、リハビリのインストラクターだったのに、
いつのまにか私の暮らしになくてはならない存在になってしまった」

「ナミさんは、なくてはならない存在ではなかったんですね?」
「生活の上ではね」

女はシャンパンをグラスに注ぎ、
次いでオレンジジュースをジンの前に置くと、散歩してくると立ち去った。

「よくナミは君を一人でよこしたな」
「直前まで黙っていました」 
そうかと、驚きもせずにダンドロはグラスを掲げる。

ジンもグラスを合わせる。
ミーナに、と心のうちだけでつぶやく。
僕たちのミーナに……。

「カプリの館に招きたかった。
こんなところで残念だ。そのうちゆっくり来てくれ」 

「どこであれ、あなたに会えて嬉しい」 
心からの言葉だった。ダンドロも微笑む。

訊ねたかったことはただひとつ、
だが面と向かってみると、あれもこれも訊きたいとジンは思う。

「あなたの作品はまず『バカンス イン アイランド』を、
それから『水の女たち』を読みました」

やはりダンドロは笑みを浮かべている。
その笑顔はつまらない評はするなと言っているようでもあり、
過去の作品になど興味はないと言っているようでもある。

それでもジンは続けた。

「驚きました。『バカンス イン アイランド』も、
それまでの作品の延長線上にあるのは間違いない。
だがあなたのなかで決定的に変わったことがある。
二つの作品が書かれた数年の間にあなたに起こったことが、
どれほど大きなことか……」

ダンドロの明るい茶色の瞳が、生気を増したように見えた。
「君は、どちらが好きかな?」

「どちらとは言えない。どちらも好きです。
まるでひとつのことの表と裏のように、
この二つの作品は補完関係にあるようにも思える。
カンピエッロ賞を辞退したのは、何故ですか?」

ダンドロの瞳の色が、濃くなった。じっとジンを見つめている。
緊張が高まっていく。
だが数秒の沈黙の後、ダンドロはふっと目の力を抜いて右手を差し出した。

「握手しよう、握手するのを忘れていた」
挨拶のとき彼は右手を杖に預けていたので、握手はしていなかった。
骨ばった、がっしりとした手だった。
強く握られた手のひらから、信頼と共感が伝わってくるのがわかった。

「色々と理由があってね。
当時はまだ車椅子を離せなかったし、
もともと賞などきらいだということもある……」

ダンドロは静かな目をしたままグラスを飲み干し、また満たし、
それも飲み干した。
ジンは次の言葉を待った。だが答えはそこで終わりのようだった。

「君はディーには似ていないな」 代わりにダンドロはそう言った。

「まあ見かけは、似ていないことはない。
同じ感性を持ち合わせてもいる。
だが君は境界線を越えてくる。踏み越えてくる。
誰にでもできることじゃない。
しかしそういう男でなければ、ナミの心はつかめなかっただろう」

なにもかも見透かすように、ダンドロは目を細めた。


シャンパンのボトルが空になる頃、ようやくジンはその疑問を口にした。

「空港に行くディーとミーナを追いかけた朝……」 
そこまで言ってダンドロの顔を見る。彼の表情には、何の変化もない。
「ボートの調子はどうでしたか?」

「良かったよ」 
あまりにさらりと答えられて、かえってジンの疑問は深まる。
「本当ですか?」
「ああ、本当だ」

「ではもし霧が出なかったら、事故は起こらなかったと?」
「君も知っているだろう。
冬のヴェネツィアで、海に霧が出ない朝なんてないよ……」

そうとは限らないでしょう、とジンは胸のうちでつぶやく。
だがそれは言わずに、質問の矛先を変える。
「何故、事故のニュースがどの新聞にもなかったんですか?」

ダンドロは、沈黙している。

「あなたがもみ消した?」
「まさか。私にそんな力はなかった」

「では誰かが? もっと力のある…… たとえば……」
ダンドロが笑い出したので、ジンはその先の言葉を飲み込む。
「たとえば?」 愉快そうに、ダンドロが促す。

「どこかの国の要人、たとえばアラブのどこかの国とか。
あなたが接触した船は大型客船などではなく、豪華な大型クルーザーだった。
お忍びでやってきていて、そのことを知られたくない誰かが、
あるいは事故の責任を問われるのを恐れた誰かが、
マスコミや警察に手を回した……」

「ブラーボ!」 そう言いながら、ダンドロが拍手をする。
「素晴らしいよ。80パーセントが真実だ。
20パーセントは聞かないでくれ。その誰かは問題じゃないだろう?
もっともその誰かのおかげで、
私はローマに出るのにヘリなんてものを使えるんだが……」

残りの20パーセントは、どうさぐろうとも出てくることはないだろう。
そしてその20パーセントのなかには、
ボートの調子が本当に良かったのかどうかも、含まれているのだ。


「何故、あなたはナミさんと結婚したんですか?」
これなら気軽に話してくれるだろうと、ジンはナミのことを話題にした。

「戯れだよ」 
言葉の軽い調子は少しわざとらしい。
ナミが口にした憐れみと言う言葉が、重なって聞こえる。

「ナミさんにとっても?」
「さあ…… 彼女の本当のところはわかならないが、
たぶん似たようなものだろう」 

「入籍しなかったのは?」
「ほんのわずかの間だけ港に停泊する船を、迎えるような気持ちだった。
最初から長続きするはずがないと、私にはわかっていたんだ」

「ではそのあとは……」
と尋ねたところで突然、ダンドロの思いがまざまざと、ジンの目の前に浮かんだ。
ずっとそこにあったのに、霧のせいで誰も気づかずにいた、大きな橋のように。

なんということだ……。
知らずにその橋の下を、ナミも、ディーも、くぐっていたのだ。
小船を降りて、目の前の橋を渡れば……。

ジンの目を見つめながら、ダンドロが静かに言った。 

「私は物語の中で、男と女の運命を操ってきた。自分は操れると思っていた。
だが本当はそんなこと出来やしない。
彼らは勝手に動きまわり、
あるいは書き手の意図を超えた何かの力によって、出会い、別れる……。

物語の中ですら出来ないことが、現実に出来るわけはなかった。
そうだ、君が今気づいたように、
私はほんの短い間だけナミが傍らにいてくれたら、
そのあと彼女をディーの元に送り出そうと、思っていたんだ……」

 

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