5-01 ラ・マスケラ―仮面― 第五章 i

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<第五章> "ラストシーン" 

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「あのころの私は、この国の法律も制度も、よく知らなかったの。
結婚を役所に届けるのはルイジかフランコがやってくれたと思っていたし、
結婚したことを日本大使館に届けなければ、
国籍も変わらずにいることすら知らなかった」

いくら調べてもミナミ・ダンドロが見つからないはずだ。

「ルイジは私が憐れみの為に彼の元にとどまったと言ったわ。
でも憐れみをかけられたのは、本当は私だった。
どこかで道を誤った女をルイジは憐れんで"結婚"したのよ。
そんな荒療治でもすれば、私が正しい道に戻れるとでも、考えたのかもしれない」

ナミはしばらくコーヒーのカップを弄んでいたが、
それをテーブルに置き、窓辺に立った。


いつのまにか音もなく雨が降り始めていた。
庭の緑と、その向こうの聖堂の塔が柔らかな雨足に煙っている。

ナミの肩越しに窓枠に切り取られた風景を眺めながら、
だがジンの心にはルイジの言葉がリフレインしていた。
『君が帰っていく港はフランコじゃない、ディーだよ……』

「あのときなら、まだ間に合ったのに」 ジンは独り言のように口に出した。
それを聞きつけて、ナミが振り返る。

「いいえ、ディーは遠かったわ。
私が遠ざけてしまったのよ、もうどうにもしようがなかった。
あのときの私には、ルイジがアンジェラを必要とするように、
すぐ目の前に手を差し伸べてくれるフランコが必要だった。

それに私、夫としてのルイジとは別れることができても、
作家ルイジ・ダンドロからはどうしても離れられなかったの。

それからはフランコと二人で遠くから、ルイジの創作を支えていくことになったわ。
フランコは、ルイジと同類の私がすることを何も問わず、ただ黙って受け入れながら、
私を通して、ルイジ・ダンドロと繋がる道を選んだの。

ヴェネツィアの館でルイジを手伝っていたころよりはるかに緊密に、
私は彼の創作に関わるようになった。
動けない彼に代わって私がしなければならないことは多かったわ。

そして作家ルイジ・ダンドロとの果てしない格闘…… 
でもそれが出来たのは、私の後ろにいつもフランコがいてくれたからなの」

ナミはそこで、もう話は終わりとばかりに口をつぐんだ。
ジンはなにをどう答えていいのかわからずにいる。

ほんの少し何かが違ったなら、どうなっていただろう。
たとえばあのとき霧が出なければ…… 

そうしたら、フランコの役割はディーが担っただろうか。
それとも、世間一般の夫婦のありようからはみ出してしまうナミを受け入れることは、
ナミと同じようにルイジに惚れ込み、
ルイジを理解するフランコにしか出来なかっただろうか。

いや傍らにいるのがディーであれば、ナミはあれほど渇きもせず、
ナミという女を捨てたくなることもなかったかもしれない。
けれども、いずれにしても、心の奥深くに横たわるミーナとディーの物語が、
ナミの孤独な戦いを支えたのは確かなことだと思えた。

ジンもナミと並んで窓辺に立つ。
二人はしばらく、庭に振り続ける雨を眺めた。


いつしか窓の外には夕闇が迫っている。
部屋の中はさらに暗い。

「そろそろ帰ったほうがいい」 ジンは自分にも言い聞かせるように言う。
「船着場まで、送っていきます」 

「船着場まで? どういうこと?」 ナミがジンの顔を見上げた。
「僕はここに泊まります」
「あなただけ?」

「ええ」
「一人で?」 

ジンもナミの顔を見て、強い口調で答える。
「そうです」 

「私も泊まるわ」 
ナミはジンの怒ったような声音にひるむ様子も無い。

ジンは一度大きく息を吸うと、それを一気に吐き出すように言う。
「だめです」 

「どうして?」
「どうしてって……」 
返事に詰まったジンの顔を見て、ナミが小さく笑う。

「あなた、臆病ね」
「臆病?」
「そうよ、あなたは恐れている。
誰かを傷つけること?ううん、違うわ。
自分の気持ちを顕にすることを、
顕にして、それを引き受けていくことを……」

ジンは思わずナミを凝視する。その目を見つめながら、ナミは続けた。

「私が欲しいと、素直に言ったらどうなの。
私は、あなたが欲しいわ。
今夜、一人の館に私を帰さないで」

ナミのあまりにストレートな言葉に、
ジンはそれ以上ナミを拒む言葉を口にできない。

ナミの手がジンに向かって伸ばされた。

仮面もつけずに、全てを脱ぎ捨てろと言うのか……。

だがジンの手は、頭が答えを出すより早く、ナミの手をとっていた。

ナミの身体を引き寄せたのはジンだったのか、
それとも、ナミがジンの胸に飛び込んできたのか……。

「ナミさん……」 
そのまま、抱きしめる。

「ええ、あなたが欲しい。
ずっと、あなたが欲しかった」
「知ってたわ……」 

何かが、ジンのなかではじけた。
はじけてあわ立つものが身体に満ちていく。

ナミを抱く腕に力を込めすぎないように注意しながら、ジンは言う。
「お願いがあります。
今夜は僕をディーと、呼ばないでくれますか?」

ナミはうなずくとジンの左手をとり、ポケットからリングを取り出し、
それをジンの小指に嵌めた。

「驚いたな。しばらく忘れていたのに」

「私、いつも出かけるときはポケットに入れていたの」
「いつこういうことがあってもいいように?」 ナミが笑い声を上げる。
「いいえ、お守りのような気がして……」

ナミはもう一度ジンの手をとり、小指のリングにそっと口づけた。
そのしぐさに、ジンは声をあげそうになる。

あの夜、仮面をしたまま抱き合ったあと、
ベッドからすべり出たジンの手をとり、リングをしばらくまさぐったあと、
ナミは同じようにリングに唇をよせたのだ。

「これであなたはパク・ナムジン」 
ジンの驚愕をよそに、ナミが無邪気につぶやいた。


二人は猫足のバスタブの中にいる。
ナミの栗色の髪が、湯の中に広がっている。
ジンはクリーミーな泡をすくい、それをナミの頭皮にもみ込むようになじませた後、
髪を梳くように指を滑らせていく。
ナミがそうしてくれと、望んだのだ。

「気持ちいいわ」 ナミはうっとりと目を閉じている。
「ディーに、こうしてもらった?」

ええと、ナミの頬が緩む。
「ディーったら、毎晩こうやって君の髪を洗ってやるって、約束したのよ。
バカでしょう? 
私そのときだって、できっこないのにと、心の中で思ったわ」 

「ディーはそのときは、できると思ったんですよ」 
ナミは答えずに、微笑を浮かべたままでいる。

不思議なことに、ナミの口からどれだけディーの名前が出てきても、
どれだけここで過ごした時間のことを聞かされても、
ジンの気持ちは少しもざわつかなかった。

むしろ、もっと知りたい、もっと聞かせて欲しいと思う。
ディーの行為をなぞるように命じられても、
平気などころか嬉しかった。

パク・ナムジンとして、ディーの残した足跡をたどり、
ディーの痕跡をひとつひとつ消していくのに使命感すら感じた。

やがてジンは気づいた。
シナリオを書き、映画を撮る行為そのものが、
ディーの記した轍の上に、新しい物語を上書きする行為なのだと。


バスタブの湯の中に浮かぶナミの、
官能の全てを味わい尽くそうと待ち構える表情に、ジンは見入る。

泡に沈む胸のふくらみに指を這わせると、
指はするすると肌の上を滑っていく。
ジンの指が与える刺激の心地よさが、すぐにナミの表情に浮かぶのを、
ジンは喜びとともに見入る。
それは仮面をつけて抱き合った夜には、決して得られなかった喜びだ。

指は下腹部を滑り降り、湯の中にゆらめくナミの叢をかきわけ、
小さく固まった突起を探り当てる。
かすかに触れただけで、ナミは喘いだ。

ジンはたまらずにナミの唇をふさぐ。
指はさらにその奥にすべり入り込んでいく。
指が細かな痙攣に包まれると、ナミがジンの怒張したものを掴んだ。

湯の落とされたバスタブにしゃがみ、
ジンはナミをかかえるように抱いている。
それから静かに、ナミの中に自分を埋め込んでいく。

ジンを待ちわびていたナミのからだは、絡みとるようにジンをその内奥へと導く。

雨のしずくのようなシャワーが、二人の上から降り注いでいる。
そのしずくを浴びながら、ナミは大きく腰を上下させている。

春の森に降る、雨の中で交わるように、二人は動き続ける。


ベッドのジンの腕の中に、ナミがいる。
二人ともまだ髪が濡れている。
ナミの首筋に舌を這わせながらジンが聞く。
「どうして欲しいですか?」

ナミが答える。
「私に、物語をちょうだい」
「物語?」
「そうよ、あなたと私だけの、物語が欲しい……」

ジンが語り始める。
「あなたは北アフリカの、モロッコかチュニジアあたりの街の、
迷路のような市場にいる……」

ガイドに連れられて、あなたは市場を歩いている。
彩りも鮮やかな香辛料の袋をならべた店や、野菜や肉の屋台が並んでる。
平たいパンを焼きながら並べている屋台からは、香ばしい匂いが漂っている。

その脇に、さらに薄暗い通りが続いている。
足を踏み入れようとするとガイドに止められた。
『そっちに行ってはいけません、こちらに……』

行くなといわれた先には装身具のきらめきや、
陽の光を撥ね退ける光沢のある布地の山が見える。
ちょっとだけなら大丈夫、すぐ戻れば…… 
あなたは一歩狭い通りに足を踏み入れる。

そうして結局、あなたはツアーのグループと離れてしまう。
だがあなたは同時に、解放感も味わっている。

ガイドはいつも、もっと知りたい、もっと見たいというあなたの欲求を、
決して満たしてはくれなかったからだ。
皆が不満も言わずに従うのが、あなたには不思議なくらいだった。

あなたは少女のように、次々に現れる珍しいものを追って、
市場の屋台を渡っていく。
屋台は幼いころ胸を躍らせて覗き込んだ祭りの露店のように、
あなたを市場の奥へ奥へと導いていく。

夕闇が訪れ、あたりにアセチレンランプのオレンジの光が灯される頃、
あなたは疲れて立ち止まる。
見知らぬ人の群れの中で、あなたはホテルに帰る道を見失っていることに、
ようやく気づく……

ジンの声がずっとナミの耳元で物語を語っている。
語りながらジンの指は、ナミのからだを這う。

誰も正面から私を見ようとしない。

ナミがジンの愛撫に答えながら、語り出す。

市場で、ターバンから目だけを覗かせた男たちの視線が、
四方から私に浴びせられている。

けれども振り向いて視線を捉えようとすると、
皆そ知らぬふりで顔をそむける。

その中に、英語のプラカードを持った、一人の男がいる。
市場にいる男たちと同じように全身を覆う衣装を身につけ、
ターバンからはやはり目だけを覗かせている。
プラカードには『らくだの隊商ツアー3日間、200ドル』 と書かれている。

この男だけは、私から目をそらさない。
近づいてターバンからわずかにのぞく皮膚の色を確かめる。
土地の男たちより薄い色だ。
その目は鋭く、切れ長で、半月のような形をしている。

英語が話せるかと、私は問う。
男の目が笑う。
ホテルの名を告げると、男は黙って歩き出す。

男はゆっくり歩いてくれていたが、
時々市場の雑踏にその姿を見失いそうになる。
私は必死に彼の背中を追う。

しばらく歩くと、見覚えのある通りに出た。
ホテルは目の前だった。

振り向くと、すでに男の後姿は夕闇にまぎれている。
私は声を張り上げて訊ねる。

『そのツアーに参加するにはどうしたらいいの?』

『明朝5時に、ホテルの前に迎えに来ます』 
初めて、男が答える。

ナミの舌が、ジンの下腹部をさまよっている。
目を閉じ、砂漠の夜明け前の乾いた空気の中に、ジンは立つ。

あなたはホテルの前で、
まだ暗い通りを不安そうな様子でうかがっている。
やがて本当にらくだを連ねた隊商が現れ、
あなたは驚き、同時に安堵する。

一人の男があなたをらくだの背に乗せ、自分もその後ろに乗る。
その男は浅黒い肌をした、隊商の長だ。

隊商は荷物も運び、
ついでに観光客にも一風代わったツアーを提供しているのだ。

他にも西洋人が数人、隊商に加わっている。
皆砂漠の民と二人組みになって、らくだに揺られていく。

隊の中に、一人だけでらくだに乗っている男がいた。
首からカメラを下げ、ときどきらくだを止めてはシャッターを切っている。

あの男といっしょにらくだに乗りたいと、あなたは言う。
それはだめだ、彼は砂漠を撮っているカメラマンで、
ツアーの間じゅう一人で行動するのだと、隊長は答える。

砂漠の闇が地平線のふちから徐々に薄れていく。
東の砂丘のなだらかな稜線がひときわ明るくなると、
柿のような色の太陽が昇り始める。

カメラマンにつられるように、競って観光客もシャッターを切る。

じりじりと強さを増す陽の光に、汗すらたちまち蒸発してしまう。
いつの間にか、あなたも全身を覆うアラブ風の衣服をかぶせられている。

男の無骨な腕の中で、
らくだのこぶにしがみつくようにあなたは下半身に力を込め、
目のくらむような光と熱と、視界を覆いつくす砂の色に魅せられている。

ようやく小さなオアシスに着いた。
昼食後あなたは泉で水浴する。

カメラマンがそれを撮る。
シャッターの音に気づいても、あなたは何事もないように、水浴を続ける。

カメラマンが近づいてくる。半月の形の目を見ながら、あなたは言う。
『市場ではありがとう』 

彼も笑って答える。
『こちらこそ、ツアーに参加してくれてありがとう。
あなたのおかげで今回もツアーを催行できた。
最低5人集めないと、彼らは受けてくれないんだ』

ナミがジンの上で、らくだの背にいるように揺れている。

夕食後、皆はテントに引きあげてしまった。
カメラマンと私だけが、毛布にくるまって砂漠の砂の窪みにいる。

傍らには焚き火の炎。頭上には降るような星。
私のなかで、彼が、あなたが…… 
踊り、跳ね、歌う……

庭の木々の葉を柔かくたたく雨の音が、砂漠に降る星屑のように、
ナミとジンの上に降り注いでいた。

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