4-04 ラ・マスケラ―仮面― 第四章 iv

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<第四章> "悪魔の橋 " 

      iv


『悪魔の橋』まで来ていた。
ジンはもう一度橋の真ん中まで渡ってみる。
今度は船着場に向かう方角とは反対の、
運河が行き止まりとなる聖堂の方角を向いて座り込んだ。

今更シナリオから降りるとは、ナミは言わないだろう。
だがジンの心は重い。

やむを得なかった。あんなふうにしか出来なかったのだから。
けっして褒められたことではない。
だがそれほどまでしても、ナミをこの映画に引き入れたかった。
この映画を撮りたかったのだ。

とはいえ、ナミを欺いたことに変わりはない。
いや、欺いている事がもうひとつある。
そのことを知ったら、ナミはどう思うだろうか。
どんな顔をするだろうか……。

そのことをずっと隠し通す事が、できるのだろうか。
いっそ全てを、話してしまったほうがいいのではないか……。

答えの出るはずもない問いを繰りかえしているうちに、 ふとジンは、
そう言えばミーナの物語の中には、この橋が出てこなかったことに気づいた。

なぜナミは、これほど印象的な橋を物語りに登場させなかったのだろう。
枯れ草が地面を覆う荒地の描写は克明だった。
内部の精緻なモザイクとは対照的な、
聖堂の外観の寂れた様子もていねいに描き込んであった。

そのために、楽しげに未来を語りあう二人の周囲には、
衰退と終末の予感が漂っていたのだ。

わざと、橋を描かなかったのではないか……。
そう、思い至る。

もしこの橋でディーとミーナが語ったことを物語から削れば、
二人が語った事が物語にとって重要であるならなおさら、
その場面を削ることは、ディーにあるメッセージを送ることになる。
書かれたことではなく、書かれなかったことが、ディーにナミの心を伝えるのだ。

二人で語り合ったことを永遠に闇に葬りましょう、
そのために、あなたを守るために、私はヴェネツィアに残るのだと。

となるとやはり、ルイジの事故にディーは関係があるのか……。


「ジン……」
頭のすぐ上で、ナミの声が響いた。
いつやってきたのか、ナミがジンのすぐ横にいた。

ジンが立ち上がろうとするのを制し、腰をおろす。
黒いブーツが運河の上にふわりと浮かんだ。

「こっち向きに座ったことなかったわ。景色が違うわね」
「ナミさんもここに腰掛けたこと、あったんんですね?」
「誰だってこの橋を見たら、真ん中まで渡ってみたくなるわ。
そしてこうやって腰を下ろして、しばらく時間を過ごしてみたくなる」

「ディーとも?」
ふふと、ナミが笑った。「そうよ……」
「なぜ、あなたは物語の中に、この橋を登場させなかったのか……」

ジンは今しがた考えていた疑問を、そのままナミにぶつけてみた。
「ねえ、私あなたと和解しようと思って来たのよ。
いきなり問い詰められるとは心外だわ」

ナミが憮然とした表情を浮かべた。
すみませんでしたと、ジンは素直に謝る。
とにかくナミの口から和解という言葉が出たのが、ありがたかった。

「あなたのかけひきに屈した格好になるのは、
最初からわかっていたことだわ。
今更子供みたいに怒ることじゃなかった。
ただこのところ私、ちょっとまいってたから……」

「いや、僕はあなたを欺いたんです。
ディーはあなたが引き受けなければ、映画はあきらめると言っていた。
なのに僕はあなたをだまし、
勝手に映画を撮られるのがいやならシナリオに参加しろと、脅したんだ」

「欺いた…… のかしら?
ディーだってなんとしても映画を撮りたかったんじゃない?
だとすればあなたは彼の意思を、見事に私に伝えたことになる。

ディーなら本心を押し隠して引いてしまうところを、あなたは引かなかった。
そのことに、私はむしろ感謝しているの」

「僕を許してくれますか?」
ええとナミが手を差し出した。
ひんやりした手を、握り返す。

違う景色を見せている橋の上で、ジンはもう少し話していたかった。
だがナミは立ち上がると、すたすたと軽い足取りで歩き、
あっけなく橋を降りてしまう。そして橋のたもとから、
「チプリアーニの部屋、見に行きましょう」 とジンを誘った。


部屋は薄暗かった。
ナミはライトをつけず、窓に歩み寄ってカーテンを開ける。
ミーナの物語に描かれていたように、窓からは庭と、聖堂の塔が見えた。
落ち着いたクリーム色で統一された部屋の雰囲気はなかなか良かった。

「ディーはずいぶん奮発したんですね」
ナミは部屋を見回している。

「ファブリックの色が違うわ。もう少し落ち着いた色だった。
それから窓の外の緑も。
あのときはこんなに梢が生い茂っていなかった。塔がもっとよく見えたもの」

ジンはソファーに座り、窓辺に立つナミの姿を見ている。
それから音も無く部屋の中を歩き回るナミを。
ベッドに腰を下ろしたナミの手のひらが、ベッドの固さを確かめるように、
ベッドカバーの布地の上をすべるのを、見ている。

橋の上で浮かんだ疑問を問うのは今しかないと、ジンは思った。
受話器を取り上げ、ルームサービスでカプチーノとグラッパを頼む。

「頭はカフェインで覚まし、心はアルコールで麻痺させる、ってわけね?」
「頭をカフェインで覚まし、心を、アルコールで励ますんです。
ナミさんは何がいいですか?」
「私にも同じものを」
二人分と、ジンは受話器に告げる。


「話してください。
なぜ悪魔の橋を、あなたは書かなかったのか。
あなたは物語の中に、ミーナとディーを閉じ込め、
その中で二人に永遠の生を与えようとした。
だがあの物語は、本当にそのためだけに書かれたのか……」

ナミはカプチーノの泡をスプーンですくって口に入れた。
それからカップに砂糖をたっぷり加え、グラッパを注ぐ。
ゆっくりとかき混ぜたあと、ひとくち、ふたくち、それを飲んだ。

「美味しいわ……」

ジンもナミと同じようにしてみる。
ミルクの泡の上にはほろ苦いカカオの粉が乗っていて、
口に入れると泡はすぐに解け、カカオの苦味だけが舌に残った。
それをなめらかなミルクコーヒーが洗い流していく。
喉を通り抜けるとき、鼻腔にグラッパの乾いたぶどうの香りが抜けた。

「あの橋の上であなたが頭の中に描き出したような会話を、
私たちは交わしはしなかった。
でも私、考えはしたの、あなたのように。
ディーの心の中に、いえ、自分の心に兆すものを……。

私たちは恐る恐る互いの目を覗きこんだわ。
その底にあるものが、自分の心にあるものと同じかどうか。

そのあとも、言葉にしたことは一度もなかった。
でもディーにはわかったはずよ。
私が物語の中で悪魔の橋に触れなかった理由が。

私は問うた。
あなた、悪魔の橋で心に浮かんだことを、実行に移したの?
そして伝えたかった。
もしそうだとしても大丈夫、ルイジに対する償いは、私がするからと」

「ディーはそのメッセージを受け取ったと?」
「ええ、彼は二度とヴェネツィアに来ない。
それが答えだと思っていた……」

ナミの瞳に痛みが浮かんだ。
だがそれは雲の落とす陰のように移ろい、すぐに消えた。

「ではなぜこのシーンに同意したんです?
もう時効だから、ですか?」
「いいえ。時間とともに、真実は違うのかもしれないと思うようになったの。
きっと誰も、何もしなかったんだと、今は思っているわ」

「誰も、とは?」 
「誰にとっても、妄想とそれを実行に移すことの間には、
とてつもない距離がある。
むしろほとんどの場合、妄想は現実に結びつくものじゃなくて、
現実から妄想されたそのことを、差し引いていくものでしょう?」

「妄想することによって、かえってそのことは、
現実には行われなくなるということですね?」
「そうよ」

誰もしなかった、とはどういうことだろう。
ナミが答えをはぐらかしたことが、引っかかった。
だがジンは、この機会を逃したら二度と尋ねる事ができないような気がして、
ずっと疑問に思ってきた問いを発した。

「なぜ、ダンドロ氏と結婚したと書いたんですか?
ディーがあなたを迎えに来なかったのは、この一行のためだ」

「私たちには、決定的な事実が必要だった。
迷いを断ち切るために。
だから私、本当にルイジと結婚したの」
「ではそのあと離婚して、フランコと再婚したんですか?」

ナミは両手に持ったカップを覗き込むようにしながら続けた。
「教会で結婚式をあげたわ。
立会人はフランコと、フランコが連れてきた彼の友人だけだった。
ルイジは車椅子の姿を見られるのも、
そんな姿の写真がマスコミに流れることにも、耐えられなかったのよ。
だからパーティーも、何もなかった」

「すぐにヴェネツィアを後にしたんですね?」
ジンは物語の冒頭の、列車の窓を霧が流れていくシーンを思い浮かべる。
「実際には一週間ほどあとだったわ。
館の三階だけをある家族に貸すことにして、その契約に時間がかかったの……」


「イスキアを経てカプリに移った。
暮らしが落ち着くまでしばらくの間は、
私も本当に彼の妻になったんだと思っていたわ。でも半年ほどたったとき……」 

ナミはそこで言葉を止め、
「その前に、あなたにルイジがどんな男なのかを話しておかなければいけないわね」 
と言った。

「ダンドロ氏に対する、あなたの気持ちについてもです。
曲がりなりにも結婚したんだ。
あなたも彼を愛していたんでしょう?」

「愛?」 ナミは思いがけない言葉を聞いたようにジンを見た。
「手垢にまみれた言葉ですか?」

「いいえ。確かに、私も彼を愛していた。
でもそれは男と女の愛とは違うものだったの。
私は師としての彼に憧れ、敬服していた。

厳密に言えば私が愛していたのは、彼から生み落とされる言葉と、
その言葉で綴られた物語だったんだわ」

そこまで言うとナミは、
「あなた彼の作品を、読んだことがあって?」 と訊ねた。

「ええ、『ヴァカンス イン アイランド』を、フランス語訳で読みました」
パリにいる友人に頼んで、
ダンドロのフランス語訳を何冊か送ってもらったのだ。

友人はダンドロ評やバイオグラフィーも送ってくれた。
『ヴァカンス イン アイランド』は、カプリに移り住んで2年後に発表されたもので、
作風が変わったと評判になり、若者にも受けた作品だというので、
まっさきに手に取ったのだ。

戯曲といっても小説のように文体が工夫されていて、
その点でも歓迎され、売れもしたのだろう。
カンピエッロ賞の候補にノミネートされながら、それを辞退したいうのにも興味を引かれた。

「そう、残念だわ。
彼の最高傑作『水の女たち』を読んで欲しいわ」 
送ってもらった中にその本はなかった。
フランス語訳では手に入らなかったのだろう。
戯曲のマーケットは驚くほど狭いのだ。

「でも僕は『ヴァカンス イン アイランド』、気に入りましたよ」
「どんなところが?」

「明るい太陽の光に満ち溢れたヴァカンスの中にあって、
孤独を抱えた女の造形が見事だった。
それにひと夏だけやってきて去っていく異国の若者が、とても印象的で…… 
あなたも手伝ったんでしょう?」

「ええ…… 少しだけ」 ナミが嬉しそうに笑った。


「ルイジがまともな結婚生活を送れるなんて、
はなから思ってはいなかった。
絶えず書き、絶えず違う女を追いかけまわす、そしてまた書く…… 
それがルイジ・ダンドロなのよ。
そんな彼の体験から生まれた作品が『水の女たち』なんだけれど……」

「車椅子になっても、変わらなかったんですか?」
「一層悪くなった……。
自由に動けない分、焦燥が募るの。
悪いのは、私がそんな彼の気持ちを全部わかってしまうことだった。
嫉妬もせず、責めもせず……。 

ある日、ルイジの女友達の夫が怒鳴り込んできたの。
妻になんてことするんだって。

私、答えてあげたわ。
大丈夫、彼は車椅子でしか動けないし不能ですから、
あなたの奥さまには実際のところ何もできないんです。

あなたの美しい奥さまは、ルイジ・ダンドロの作品のミューズになっただけですから、
それ以上の野暮はおっしゃらないでくださいな、って。
彼はあとでそのことを聞かされて、『さすが私の妻ミーナだ』 と笑った……。


『もうミーナと呼ばないでって、言っているでしょう!それに、妻というのも白けるわ。
以前の弟子兼私設秘書と何にも変わらないんだもの』

『結婚てヤツを一度してみたかったんだ。
君は私と同じ種に属する人間だから、
君ならこんな結婚生活も面白がってくれる気がしてね』

『贖罪のつもりだったのよ』
『それこそ白けるね。憐れみと言ってほしいよ』
『似たようなものだわ』


ルイジは車椅子で部屋の隅に置かれた歩行器まで行き、
腕の力だけで、長い時間をかけて体を引き上げ、車椅子から立ち上がった。
ゆっくりと、平行棒のように渡された棒に腕をかけ、その間を歩いて行った。

端までたどり着くと、また長い時間をかけてからだの向きを変え、
車椅子まで戻ってきた。

カプリの家にはもう一人女がいたの。
ルイジの介護とリハビリのために雇われたフィリピン人のアンジェラよ。
リハビリに及ぼす彼女の能力はすごかった。
彼女のおかげでルイジの勃起不全すら、治癒しかかっていたわ。

アンジェラはルイジに駆け寄って『ブラーボ!』と叫び、
そのあとは英語で褒め称え、彼の頭を胸にかき抱いた。
豊かな胸に押し付けられたルイジの顔が、幼児のようにその感触を楽しんでいたわ。
 

『もう、私の手助けもいらないみたいね』 
『そんなことないさ。相変わらず君がいなきゃ、一行も書けやしない』

その言葉に私が反論できないのを、彼は知っていた。
でも私、そのとき彼から離れる決心をしていたの。

アンジェラが部屋を出るのを待って、言ったわ。
フランコにプロポーズされた、受けようと思う、だから離婚して欲しいってね。

ルイジが笑い出した。
 

『私と同じ種に属すナミが、結婚生活なんて出来るはずないのに』

私も笑ったわ。
じゃこれは、私たちがしてたのは、結婚生活じゃなかったのねと。

私とフランコは、長い間ルイジを挟んで仕事をしてきたわ。
私たちは同じように作家ルイジ・ダンドロに魅入られ、
同じようにルイジ・ダンドロの物語に係わることに使命感を持っていた。

役割分担はうまくいっていた。
カプリで暮らす以前は、いえ、ルイジが半身不随になるまではね。

事故でなにもかも変わってしまった。
まずルイジが変わった。
私たちが"結婚"したことも、
それまで保たれていた三人の関係のバランスを崩すことになった。

カプリは小さな島よ。
ヴァカンスのシーズンが終ってしまい、風だけが強く吹き付ける冬になると… 
観光客のいない島の静けさを、私もルイジも愛したけれど、
それでも鬱々とする時間のほうが多かった。

崩れたバランスを矯正するように、
私とフランコの関係が緊密になるのは、ある意味自然なことだったわ。
ルイジもそれを知って、でも彼は平気でいた。

面白がってさえいたかもしれない。
でもあの閉ざされた島でそんな状態を続けることは、
私にも、フランコにも無理だった。
 

『彼とだったら、出来るかもしれない。私たちをずっと見てきてるんだもの』
『私はそうは思わない。
君が帰っていく港はフランコじゃない、ディーだよ』

心の奥深くに封印した名前をルイジは口にした。
気持ちが乱れたわ。
そんな私をルイジは長く黙って見つめたあと、ようやくこう言ったの。
 

『好きにしたらいいさ。君が幸せになれるならそれでいい。
誰とでもすぐに結婚できるよ。
法律的には、最初から君と私は結婚なんかしていなかったんだから……』

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