3-05 ラ・マスケラ―仮面― 第三章 v

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<第三章> "ヴィーナスの仮面 " 

      v


ジンはポスター撮りを、
プレセールやプロモーション用の写真撮影としてだけではなく、
映画撮影の前哨戦として位置付けていた。
実質的なクランクインと言ってもいいかもしれない。
それほどに、はやる気持ちをなだめる必要もあったのだ。

まだ暗いうちに、チャーターした二台のボートでサンタ・ルチア駅に向かう。
フランコもエリーも同行していた。
駅から橋ひとつ渡った対岸の広場に住んでいるユキは、
駅前の船着場で合流した。

ヴェネツィアが不便なのは、車が使えないことだ。
どこへ行くにも、何をするにもボートの助けを借りなければならない。
それがいやなら徒歩しかないのだ。
だから戸外の撮影時には、着替えもメークも、
全てを狭いボートの船室でやるしかない。

大掛かりな撮影となると、
近くのホテルに部屋を確保する必要があるかもしれないが、
低予算で短時間で映画を撮るのを得意としてきたジンには、
身軽に動け、現場で予定を簡単に変えられることからも、
ボートを利用するほうが得策だと思える。

ジンとユキは手早くメークを終え、
窓をカーテンで覆った衣装室代わりの船室で、交代に着替えを済ませた。


霧は濃すぎるほどだった。

「これじゃ何にも映らんな」 リュウがつぶやく。
フランコが、「夜が明ければ、霧は次第に薄れていきますよ」 と答える。

撮影の手順の確認のために船室に全員が入ると、
人いきれで窓ガラスが曇った。
外の明るさを確かめるために、
リュウは頻繁にガラスの曇りを手でぬぐっている。

やがてフランコの言葉の通りに、あたりが明るくなるに従って、
周囲の建物の輪郭がわかるほどに霧が薄れてきた。

運河と街灯と建物を背景に、ディーとミーナのシルエットを何枚か撮る。
駅の構内でも、立ち止まる二人の周囲を、
早朝の列車に乗り込む旅行者とビジネスマンの人の波が流れていく様子を、
スローシャッターで撮る。

吹きさらしの駅の構内をあちこち場所を変え、
一度衣装も替えて撮影は続いた。

その撮影の合間に、寒そうにこすり合わせているユキの手を、
ジンは自分の手でくるむように包んだ。恥ずかしそうに微笑むユキ。
背後に、リュウのカメラが音もなく迫っている。

ジンはユキの手を温めようと、息を吹きかける。
そのままその手を、自分のコートの中に導く。
胸に押し当てるとユキが冷たい手のひらを開いて、
鼓動を確かめるようにそっとジンの胸に沿わせた。

「暖かい……」 
見詰めあう二人の周囲で、途切れることなくシャッターを切る音が響く。

「よしっ」 とリュウが一声発したが、ユキはそのままでいる。
再びリュウがカメラを構えた。

そのときユキが、ふっと力を抜いた。
「ごめんなさい……
私、まだミーナになれていない……」 

ユキは納得していないのだ。
だが人の群れが増え始め、この場で撮影を続けるのは無理そうだった。
それに次の予定もある。

「大丈夫、使えるものもあるし使えないものもある。
駅の場面はそう重要じゃないし、次のカ・ドーロでがんばって」 
ジンの言葉に、ようやくユキはジンのコートの中から手を引き抜いた。

時刻はすでに昼近い。
カ・ドーロでの撮影は、美術館が閉まる昼休みの間に中庭で行うことになっていた。
移動して準備をしていたら、すぐその時間になってしまう。

「さあ」 とジンはユキに手を差し伸べる。
その手を握り、ジンにしたがって数歩歩き出したユキが、
「違うわ」 と言った。

「違う?」 
「ええ、違う。手を引くのはミーナよ」

ジンは立ち止まり、手を離す。
一歩前に踏み出したユキが振り返り、ジンに手を差し出す。
ジンの手をとると、「来て」 と歩き出す。
晴れやかな表情だ。

「ミーナ……」
「こっちよ、ディー」 リュウが二人の前に回りこみ、
後ろ向きに歩きながらシャッターを切る。

駅の構内をゆっくり通り抜ける。
階段のあたりには人の波が途切れ、少し空間が開いている。

リュウが一足先に階段を降り、下からカメラを構えている。
ユキが立ち止まり、振り向いた。
その横顔を撮れるようにと、リュウが斜めに数段階段を登る。

ユキが微笑んだ。
初めての運河に目を奪われた表情のジンに、誇らしげな視線を注ぐ。
それは、愛するヴェネツィアを旅人に引き合わせるのが嬉しくてたまらないという顔の、ミーナだった。

「OK! よかったよ!」 
リュウの声が響くと、今度はユキも満足したようだった。
だがつないだままの手をほどこうとはしない。 
ジンもそのままでいる。


ボートに向かいながら、船室に誰かいるのにジンは気づいた。
窓からこちらを見ていたのだろう、すっとその影が船室から出てくる。
ナミだった。
階段でのジンとユキの姿も、きっと見ていたに違いない。

「寒いから、中に入ってたの」 
「君が来なくてもよかったのに」 
フランコがそう言いながら進み出た。

ナミは昨夜ジンにも、
今日は館でずっとルイジ・ダンドロの嫉妬のシーンを書くと言っていた。

「なかなか思うように書けないのよ。
だから気分転換したくて」 
少しかさついたように見える肌は、寒さのためだけではなさそうだった。

フランコがナミを抱き寄せ、髪に唇を寄せた。
あたりまえのようにフランコに寄り添うナミに、ジンの胸がちくりと痛む。
その痛みが伝わったかのように、ユキがつないだままの手に力を込めた。

「お昼を持ってきたの。先に腹ごしらえをしとかなきゃね」
昼食のランチボックスはオンデのスタッフが持ってくることになっていたが、
ナミが代わりに持ってきたのだ。

暖かい料理はあきらめていたが、ナミは大鍋ごとミネストローネを、
発泡スチロールの容器の中に入れて持ち込んできていた。

全員がようやく座れるほどのスペースしかないが、
それでも船室は外より暖かく、冷えた体に熱いスープはごちそうだった。
サンドイッチが配られ、見ると赤ワインも栓を抜かれている。

「ただし」 とワインを注いだプラスチックのコップを回しながらナミが言う。
「みんな、一杯だけよ」

「大丈夫ですよ、この寒さじゃアルコールなんかどっかに飛んじまう」 
リュウの言葉に、
「じゃ、俳優以外は二杯」 とナミが答えると、わーと歓声が上がった。

「そりゃずるい!」 ジンが抗議するとまたリュウが、
「おまえは水だ。すぐに顔が赤くなるから」 と言う。
「先輩!」 
頬を膨らませ、大げさにむくれた顔をつくったジンに、全員が笑った。

「私も、顔が赤くなるんです。だから私もお水にします」 
ユキが言うと、ヒューとリュウが喉から声を出した。
「よしよし。そうこなくっちゃな。じゃユキちゃんの分はオレがもらおう。
ジンの分は……」

ジンはコップを奪われまいと体をひねり、ひとくちワインを飲む。
「本当に?」 ナミはそう問い、リュウがうなずくと、
さっとジンの手の中からコップを取り上げ、
残ったワインの半分ほどを飲み干してから、それをジンに返した。

「ハイ、あなたは半分」 
あまりに自然で、なめらかな動きだった。
「ひどいな、ナミさん。ウソに決まってるでしょう!」 

あら、そうなの? とナミは笑っている。
夕べだけではなく、何度かワインを一緒に飲む機会もあったのだから、
リュウの言葉がウソだとナミは知っているのに。

「じゃ、私のはジンさんに」 
ユキが自分のコップをジンに差し出す。
それを受け取り、ジンがはしゃいだ声をあげると、皆がまた笑った。

ナミも笑っている。
ユキの小さな対抗心を、笑って受け入れている。 

ユキはしばらく、肩透かしをくったような表情をしていたが、
はいと水のコップを渡してくれたナミを、崇拝するような目つきで見上げた。
だがその視線には、挑戦的な強い光が宿ってもいる。


ユキの内に漲る力は、カ・ドーロでの撮影の間も途切れる事がなかった。
そのためもあって、驚くほどすんなりと撮影は進んだ。

「あとは橋のシーンだけだな。
こんなに順調に行くなんて初めてだよ」 
リュウが驚いている。

天気や俳優の調子など不確かなことの多い撮影では、
予定通り進むほうがまれなのだ。
だが、次の橋のシーンではそうはいかなかった。

狭い運河にはまずボートをつける場所がなく、
少し離れたところから全員で機材を運ぶしかなかった。
しかも人通りが激しくて、ほんの短い時間しか人の流れを止める事が出来ない。
思うように撮れないので、リュウの苛立ちがつのっていく。

明日にするかと、ジンは思いはじめた。
そのとき、
「ここ、やめましょう」 ナミが厳しい表情で言った。

「フランコ、もっと人通りが少ないところへ移動よ」
その落ち着き払った声に、ジンももう少しだけ粘ってみようと言う気になった。
機材をすぐに片付けるように指示を出す。
撮影許可のことなど、誰も口にしない。

先頭のボートに男性陣が乗り、続くボートにはナミとユキとソニンを乗せる。
撮影ポイントに着くまでにメークを直させるためだ。
少しでも時間が惜しかった。

移動の間もフランコは携帯電話でナミと連絡を取り合い、
ポイントの確認に余念がない。
ジンはもう一度コンテを広げ、
短い時間の中でどのような場面を撮るかをリュウと打ち合わせる。

「撮りたい絵はふたつ、ミーナがディーを導いて橋を渡るところ、
それから二人が橋の上で抱き合うシーンだ」
「わかってる。あと一時間、いや45分、だな。一発で決めてくれ」 
リュウも腕時計を見ながら短く答える。


ボートが停まった。
全員で運河に沿った小道を、機材を持って目当ての橋まで歩く。

運河の上流にはもうひとつ、
レンガで詰まれた小さな半円形の橋があった。

アーチの下の水に、
建物に反射した午後の低い陽射しが一条の筋となって射しこんでいる。
リュウの目が光り、黙ってカメラをセットし始める。

その間にソニンとエリーが、衣装とメークを確認する。
ジンが肯くと、全員に緊張が走った。
その光が水の上にとどまっているのは、ほんの短い時間でしかないことは、
誰の目にも明らかだった。

立ち位置の確認もテストも無しに、いきなり撮影に入る。
ユキに手を引かれるようにジンが橋を渡リ始める。橋の上には二人しかいない。

どちらともなく、橋の上で立ち止まる。
その視線の先に光が、運河の水に柔らかな光線を描いている。
しばらく言葉もなく、その光に見入る二人。

ジンが握った手に力を込めると、自然にユキが体を寄せてきた。
そのままジンはユキの肩を抱く。

ユキがジンの顔を見上げると、充分な間合いを取ってから、
ジンは手のひらを、ユキの頬から首の後ろへと這わせていく。
その手でユキの首を支え、見つめあう。

コンテでは"抱き合う"とだけなっていたシーンだ。
ユキの潤んだ目がミーナとなってジンの中のディーを誘う。
ジンはその誘いに乗って、頬をよせていく。

だがユキの求めているのは……、

吸い寄せられるように、ジンの唇が重なっていく、ゆっくりと…、 
シャッターの音を遠くに聞きながら……。

ユキのからだの緊張が、緩んでいくのがわかった。
その唇が、柔らかく溶ける……。

カメラも、カメラの後ろからスタッフが、ナミが、二人を凝視しているのも、
助手に足止めされた通行人が数人、橋のたもとから二人を見詰めるのも、
ユキは忘れてしまっている。 

「ディー」 と喉の奥からユキが呼んだ。 
「早く、館へ……」 
その言葉の切実さに思わずジンは体を離し、ユキを見た。

そのときリュウが、OK!と叫んだ。
だがユキは、すぐにはミーナから戻ることが出来ない。
ジンはそっとユキを抱きしめ、子供をあやすように、背中をさすり続けた。


「こいつは本番が楽しみだ」 
リュウはご機嫌だった。

夕方全ての撮影を終え、
『ダ・マウロ』にミネストローネの鍋を返しに寄った。
ナミやフランコが店のオーナーに撮影の様子を語り始め、
なんとなくそのまま、全員が店の二階に落ち着いてしまったのだ。

「あのときのナミさんの判断も良かった。
それにユキちゃん、すごい集中力だったな。感心したよ」

手ばなしにリュウが褒めるのはそうあることではない。
確かに全員のパワーがあの橋の上の数十分に凝縮したような撮影だった。

ユキは一皮向けたように、みずみずしい表情を浮かべている。
明らかに自信が生まれていた。
ナミも、順調な撮影に満足しているようだ。

だが、ナミはワインを少し飲むと、
テーブルの上に所狭しと並べられた前菜を口にすることもなく、立ち上がった。

「私、また今夜ルイジと格闘しなきゃいけないの。この辺で失礼するわ」
「ナミ……」 フランコも立ち上がる。

「君、また根を詰めて…… そろそろ休まなきゃ。
今夜は家に帰っておいで。
苦しいときは、少しその場から離れないと……」

二人のやりとりに、
ジンは撮影がうまくいったと浮かれていた自分を恥じた。
シナリオが一番難しい局面を迎えていることは知っていたのだ。

ミーナの物語では、
ディーが館を出るきっかけとなった顛末は詳しく描かれていなかった。
ミーナを巡ってのルイジとディーの確執や、
ディーとミーナの感情のもつれ、行き違い、 などがあいまいな筆致で示唆されているだけだ。

そこを印象的なエピソードで膨らませ、
描き込むことに、今ナミは取り組んでいる。

そのシーンはそのまま、ナミがミーナだったときのとても辛い時間だということは、
わかってはいた。
だが、撮影に気をとられていたジンには、
ナミの心の底の苦しみに自分の気持ちを沿わせる事が、出来なかった。

「ナミさん、今日は撮影だけでも大変だったんだ。
今夜だけは、ダンドロ氏のことなんか忘れてゆっくり休んでください」
ジンもいたわりを込めて言う。

「ありがとう。そうしようかな」
ナミが微笑えむと、フランコがそっとその肩を抱き寄せる。

お先に、おやすみ、と言葉を交わしあったあと、
ナミとフランコがドアから消えて行く姿をジンは目で追った。

ナミが一人であの館に帰るより、
今夜はナミの傍らにフランコがいてくれるのがありがたく思えた。

苦しまないで欲しい…… 
ジンの望みはそのことだけだった。
何も悩まず、いやな夢も見ることもなく、一晩ぐっすりと眠って欲しかった。

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