3-04 ラ・マスケラ―仮面― 第三章 iv

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<第三章> "ヴィーナスの仮面 " 

      iv


バーを出て足の向くままに歩く。
気がつくとホテルとは反対の方向に向かっていた。
リアルト橋の真ん中まで歩を進め、欄干から運河の黒い水を見下ろしてみる。
よどんだ水の色をしばらく見つめていると、知らずに吐息が漏れ出た。

なんとか自分を保つ事ができた、
心に湧き上がる血の色のかたまりがうごめきだす前に、
二人から離れる事ができた……。

フランコはアルヴィーゼのことを、
何のトラブルにもならないプロだと言っていたが、
さっきの様子ではすこし違うようだ。

そういえばナミとシナリオを書き始めてから、
彼女がアルヴィーゼに会っていると感じたことは、一度もなかった。
だからジンも彼の存在を考えずにすんでいたのだ。

だが今は、目の前に浮かび上がる映像がある。
見たくない、見るまいとジンは目を閉じる。
すると一層、二人の姿が鮮明になる。
それは周りのことなど目に入らないかのように唇を合わせていた、
あの夜のナミとアルヴィーゼだ。 

救いは、アルヴィーゼが現れても、
ナミが嬉しそうなそぶりを少しも見せなかったことだ。
哀れみを湛えた彼女の眼、悲しみだけが込められた彼女の声……。 

それでも、にもかかわらず、ジンはアルヴィーゼが妬ましかった。
何よりも自分の気持ちをナミにぶつけられることが。
そして幼い嫉妬の感情を、臆面もなくあらわにできることが……。


ホテルの部屋のリビングでは、
リュウがパソコンで今日撮った写真を整理していた。
助手の一人がジンになにか用はないかと尋ねる。

時差ぼけのせいか、
こちらに来る直前まで別の仕事でハードな日程をこなしてきたためか、
相当疲れがたまっているようだ。

明日に備えて休むように言うと、二人はほっとした顔になる。
メークのソニンと彼らには別室をとってあった。

「随分ゆっくりだったな。ユキさんをベッドまで送ってったのか?」
それなのにリュウは、夜はこれからという顔をしている。タフな男なのだ。

しかも久しぶりにジンをからかえる事が嬉しくてたまらないらしい。
それがわかっているので、ジンも軽く浮け流す。
「先輩じゃあるまいし。あ、そうだ。彼女純粋だから、
そういうのセクハラだってとっちめられますよ」

「了解。しかしあの様子じゃ、おまえ以外は目に入ってないな。
カメラなんてないも同然だったじゃないか」
ユキがカメラを前にまるで緊張しないことに、ジンも驚いていた。
久しぶりのことだろうに、カメラの前に立った時のほうが、
むしろしぐさが自然だった。

「彼女、どうですか?」
「いいと思うね。すごく新鮮だ。
この役には少し硬質すぎる気もするが、
それはおまえがほぐしていけばいいんだ。
パク・ナムジンの腕の見せ所だな」

「仮面をつけると、その硬質さが溶けるという設定です」
ジンは簡単に、ルイジを仮面作家にするつもりだと説明を加える。

「仮面の力で、身にまとっていた鎧を脱ぎ捨てるってわけか。面白いな」
「ええ、特別な仮面なんですが、
そもそも仮面で顔を隠すことにより、明らかになるものがあるんです」

「人間の、本性のようなものか」
「あるいはその人間の、ピュアなもの…… 」

あの晩、ナミのむき出しの女に触れたと感じた。
だがそれは錯覚なのか……。 

ジンは先ほど別れてきたナミを思う。
ナミの心をつかめないもどかしさに、
彼女にその特別な仮面をつけさせたかった。

「ジン…… 」 
リュウがジンを呼ぶ。ジンは思いに深く沈んでしまい気づかない。

「おい、ジン……」 頭を小突かれて、我にかえる。
「おまえ、どこまで行くつもりだ」

ジンは一瞬、心の中を覗かれたようにうろたえた。
だがすぐに、リュウが映画のことを言っているのだと気づく。

「まだ、わかりません」
「あんまり、突き詰めるな」
「どういう意味ですか?」

「おまえのことだから、
とことん突き詰めていくんじゃないかと心配してるんだ。
描き込みすぎるな、ということだ。最後には息ができなくなっちまうぞ」

「わかってますよ」
「まあ、原作者がついているから大丈夫だろうが……」


「先輩!」 
ジンは改まった口調で、リュウの正面に向き直った。
「経験豊富な先輩に、教えて欲しい事がある」
リュウも真面目な顔つきになる。

「男の、嫉妬についてです」
なんだ、とリュウは笑って、またマウスに指をかける。
「おまえの恋愛相談なんて、久しぶりだな」

「そうじゃありません」 
ムキになるジンに、リュウは、ふん、信用できんなという表情を崩さない。

「シナリオで、ちょうどそういう箇所なんです。
ルイジがディーに嫉妬心を抱くという……」
「どういう場面だ」

「ミーナとディーの関係を知っても、ルイジは最初は平気でいるんです。
仮面の魔力で、ディーはミーナに惹かれているにすぎないと思っていて。
それが違うとわかったとき、彼は激しくディーに嫉妬する」

「まあ、そうだろうな」
「だから、そのときの気持ちを掴みたい」

「おまえだって、嫉妬に狂ったことぐらいあるだろう?」 
ないとは言わせないぞとリュウの目が笑っている。

ジンは今しがた迷い込んだぬかるみのような闇を思い、
そこから足を引きぬくように答える。
「ありますよ。ご存知の通り。
ただ、たぶん先輩より数は少ないから……」

リュウがマウスを動かしていた手を止めた。
「にくたらしいやつだ。ああ、そうだよ。
ま、おまえは、そう手ひどく女に裏切られたことなんか、ないんだろうな……。 
なあ、そもそも嫉妬には二種類あるんだ。わかるか?」


「二種類?」
「そうだ。
まだ自分のものになっていない女に焦がれて、
その女が愛している男に対して抱くもの。

この場合嫉妬は相手の男に向けられる。単純だ。
こいつさえいなければ、女が自分に振り向いてくれるかもしれないと、
相手の男に殺意を抱く」

「ぶっそうだな」 
そう言いながらも、網膜に焼きついている、
冷ややかに自分を見据えたアルヴィーゼの薄い灰色の瞳を、
ジンは挑戦的に睨み返す。

「まあ聞け。
もうひとつは、愛し合っていると思っていたのに、
女の気持ちが別の男に行ってしまった場合だ。
この場合も相手をぶっ殺したくなる。

だが同時に、許せないのはその女の裏切りなんだ。
自分を欺いて、別の男に会いに行っていたことを知ったとき、
何より許せないのは、女のその嘘だ。
その嘘をまんまと信じた自分自身だ。

自分もその女も、もちろん相手の男も、愚かで、滑稽で、醜い。
相手に対する敗北感と同時に、湧き上がるのは凶暴な怒りだ。
愚かで、滑稽で、醜い三人の人間を、抹殺したくなる」

これはディーとミーナを見つめるルイジのことだろうか。
それとも、ナミとアルヴィーゼを前にしたフランコか……。

「なるほど。だが、それだって単純だ。
もし女が嘘をつかなかったら? 
最初から、別に好きな人ができましたと、言われてしまったら?」

「おっ、映画らしくなってきたな。あまり現実的じゃないが。
その場合は…… そうだな、衝撃はむしろ大きいだろう。
大きいが、がんと一発後頭部を殴られたようで、
参りましたと、降参するかもしれん」

「愛する女が別に男をつくったとき、
それを嫉妬もせずに受け入れることができるものか。
もし出来るとすれば、それはどんな心情によるものか……」

「ルイジが、ミーナとディーを受け入れるという設定か?」
「ええ、まあ…… 可能性としてというか……」 
ジンの口ぶりはいかにも歯切れが悪い。

「そんな物分りのいい男なんているもんか。
あ、まてよ。もしその男がもうその女を愛してなければ、
あるいは自分にも別に愛人がいるとか、
それだったら都合がいいと、思うかもしれん」

「そうじゃなくて、まだ彼女を愛しているんです」
「あとは……、不能になってしまって、女を満足させられなくなってしまったとか」

「どれも単純すぎて、映画になりませんね」
「おい、ジン、単純だから映画にならないわけじゃないぞ。
間違えるな。単純でも複雑でもリアリティーがなきゃ意味がない。

現実にはいろんな男と女がいるさ。
一夫多妻の国だってある。
その反対に多情な女を妻にしても、
広い心でその女の全てを受け入れることのできる男もいるかもしれん。
だが、それが映画のリアリティーになるかどうかは、また別の問題だ」

「だから、先輩に訊いているんですよ」
「残念ながら、オレには経験もないし、想像すらできん。
まあ、あとはがんばってくれ」

経験がなくとも想像し、形にしていくのが俳優だし、監督の仕事でもある。
それはリュウに言われるまでもなく、わかってはいることだった。


ジンの携帯が鳴った。

「ジン?」
ナミだった。

ええ…と答えるとジンはソファーから立ち上がり、リュウに背を向けた。
寝室に入るのだけはなんとか思いとどまり、リュウをちらりと見る。
リュウはそ知らぬ顔をしているが、この男の勘が鋭いのをジンは知っていた。

「さっきはごめんなさい。いやな思いをさせちゃったわね」
「いいんですよ。そんなに気にしないで」

ナミがこうして電話をかけてくるということは、
もうアルヴィーゼとは一緒にいないのだ。
それだけで、ジンの中のしこったものが、柔らかくほぐれていく。

「今どこですか?」
「ホテルのロビーよ」
「帰らなかったんですか?」
「だって話の途中だったし……」
「話はいつでも……」

「あなたにいやな気持ちのままいて欲しくないの」 
「そんなことありません。大丈夫です」 

数秒、沈黙が流れた。
もしリュウがいなければ、ジンはナミをロビーに迎えに走り、
部屋に引き入れていただろう。

「ジン、なんとか言ってよ」
「ああ、すみません……」
「わかったわ。今そっちに行くから」
「ちょ、ちょっと待ってください」

ジンはあわてた。
もし今、ナミを前にした自分を見たら、
リュウは何もかも見抜いてしまうだろうと、思ったのだ。

「僕が行きます。そこにいてください」 と言って電話を切った。

振り向くとリュウはもう、
リビングをはさんでジンの反対側となる自室のドアに手をかけている。

「いい部屋、ありがとよ。
あいつらと別の部屋ってだけで天国だけどな。じゃ明日、頼むぞ」
ジンの返事を待たずに、リュウはドアを閉めた。


「明日の朝は早かったわよね。私、すぐに退散するわ」
ナミはジンの顔を見てほっとしたような表情を浮かべた。

けれどもジンは、
「大丈夫ですよ。サンタ・ルチア駅まですぐですし。
おやすみを言う前に一杯だけ、いいでしょう?」 と誘ってみる。
幸せな気分をもう少しだけ、味わっていたかった。

ホテルのバーは、カナルグランデに面していた。

ジンは、ダ・マウロにアルヴィーゼが現れる前、
ルイジの嫉妬について話していたのを思い出した。
だが誰のことであれ、嫉妬についてなど今は話したくはない。

「きれいね……」
正面の、ライトアップされたサンタ・マリア・デラ・サルーテを見て、ナミが言った。

運河には、ゆっくりと走るヴァポレットのライトが流れていく。
音もなくまたたく灯火を見ていると、ジンの胸に、温かいものが満ちていった。

「明日、霧が出るといいけど……」 
サンタ・ルチアの駅前の、霧に煙る運河を背景に、撮影は行われる予定だった。

「ええ……」 

ジンはさっきから、ほとんど言葉を発していない。
こうしてナミと、この光を見ていられることの喜びが、
言葉など口にしたら壊れてしまうような気がするのだ。

「何か私に、言うことはないの?」
「ありません」

あなたがこうして、僕に会いに来てくれた、
それだけで充分ですと、ジンは思っている。
だがそのことすら、言葉にしたくはない……。

静かにナミが、頬をジンの肩に預けた。

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