3-02 ラ・マスケラ―仮面― 第三章 ii

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<第三章> "ヴィーナスの仮面 " 

      ii


シナリオは順調に進んでいった。
全体のプロットをもう一度組み立て直し、
既にジンがイメージを膨らめてあったシーンについてはジンが書き、
ミーナの側からの視点が大事な場面はナミが書くという具合だ。

そうして持ち寄ったものに、一緒に手を入れていく。
ラストをどこまで引っ張るか、ダンドロの設定をどうするかなど、
まだ決まっていない重要な部分もあったが、
そのあたりは書きながら考えようとなった。

ナミはたいてい午後になるとジンの部屋にやってくる。
前夜書いたものを朝見直してくるのだと言うが、
部屋のクリーニングが済み、
ベッドメイクが終っていないと落ち着かないのだろう。


ジンは一人でいるとき、
左手の小指にリングがないのが心もとなくなる事があった。
デザインは変わっても、ずっと同じ場所に嵌めていたのだ。
ナミが持ち去ったもの以外にも持ってきていたが、それを嵌めようとは思わなかった。

大事な何かが足りないという感覚は、
それをナミが持っているのだと思うことで、逆に満たされたものになる。

右手の親指と人差し指で、左の小指のリングをまわす癖は治らず、
それは今、嵌っていないリングの輪郭をなぞるように動くのだった。
そしてそんなときは、リングが今もナミのジャケットのポケットの中にあるのか、
それともナミのベッドサイドのテーブルの上にでもあるのではないか、
などとあれこれ想像するのだ。

そのリングを、ナミに嵌めて欲しかった。
ナミが一人でいるとき、夜、あの館の寝室で眠る前に、
ふとベッドサイドのテーブルに置かれたリングに目を留め、なにげなく指にはめてみる。

きっと大きくて、リングはどの指であってもゆるゆると廻ってしまうだろう。
でも服を全て脱ぎ、そのリングだけを身につけて眠って欲しいと、ジンは思った。
そう思いながら、眠りにつくのだった。


一週間ほどたったある朝、ナミがサン・マルコ寺院の前の時計塔でジンを待っていた。
館を見せてくれる約束だった。
ミーナが初めてディーを館に連れて行くシーン以外にも、
あの館が舞台となる場面は多い。
やはり一度館を見る必要があった。

ナミの真紅のコート姿を、ジンは遠くからしばらく眺めた。
カメラを望遠にして何枚かシャッターを切る。
近づいて来るジンに気づいて微笑んだナミの顔を、アップで捉える。

ナミはカメラを構えるジンをまっすぐに見詰めた。
カメラがあるから、レンズを通して一層ジンの心に迫れるのだと、
その強い眼差しは言っているようだった。
ジンは夢中になってシャッターを押した。

「私をいくら撮っても、昔のミーナはいやしないわ」 
ナミはジンが、ミーナのイメージをつかむために、
自分を写真に撮ったのだと思っている。

「そんなことはない。
あなたはミーナを葬ったつもりかもしれないけれど、
あなたの中にはまだミーナがいるはずだ。また撮らせてください」
「しょうがないわね」 案外ナミは嬉しそうだった。


館へ続く道は、ジンが一人でさまよった細い小道が、
袋小路だと思って引き返してしまった更にその奥に、続いていた。
扉の横には呼び鈴がいくつか並ぶだけで、やはり表札はかかっていない。

「ここで撮影できればいいんだろうけれど……」 
中庭に立ち、ナミが言った。

運河側に面した中庭の場面は、カ・ドーロで撮るつもりだった。
だがあそこだと大運河の対岸からではいくら望遠でも少しきつい。
といって船の上からでは画面が揺れる。
やはりこの細い運河をはさんだ向かい側の小さな広場から撮りたい……。

「シナリオが完成したら、ダンドロ氏に会いに行きませんか?」 
「どうして?」
「部屋はともかく、この中庭を撮る許可が欲しい」
「どこかさがすわ」 即座に、ナミが答えた。


階段に一歩足をかけると、それだけでジンの胸は高鳴った。
数段上を登るナミの手が目の前にある。
ジンは思わず、その手をとった。
ナミが振り向く。

「初めて館に入るディーは、こうしてミーナに手を引かれていた……」 
ああ…… とナミがジンの手を握り返す。
「そう、こんな感じよ。いらっしゃい……」

だが、手を引かれて入ったホールは、あの夜とは微妙に違っていた。
かび臭い匂いの代わりに、ほのかに花の匂いが漂っている。
見るとコンソールテーブルの上の花瓶には、チューリップやバラや名も知らぬ花が、
いずれも白ばかりが活けられていた。


リビングの壁にはたくさんの古びた絵、壁の一部を切り取った暖炉、
大きな液晶テレビの前には居心地のよそさうなソファー、
シルクのクッションには窓から射す光が当たっている。

「素敵な部屋ですね」
「ここも昔と変わっていないわ。テレビが新しくなったくらいで。
あの頃、この部屋は下宿人の共同スペースだったから、
私、ディーと一緒によくここでテレビを見たの。
ディーはイタリア映画が好きだったから、ビデオもたくさん見たわ」
ナミが、なつかしそうに話し出した。

「どんな映画を見たんですか?」
「色々。ディーはビスコンティやフェリーニが好きだった。
それからナンニ・モレッティ」
「僕も好きな監督ばかりだ」
そう言えばナンニ・モレッティはいつも主役を自分で演じる監督だった……。


画面はナンニ・モレッティの『カーロ・ディアーリオ』、
ローマのオスティア海岸のシーンだ。
べスパに乗って、荒れた景色の中を走るナンニ。

そこは、イタリアの映画監督パゾリーニが殺された場所だ。
ひと気も色彩も無い荒地が延々と映し出され、
バックに流れるキース・ジャレットのピアノが次第に大きくなる……。 
鎮魂という言葉がこれほどふさわしいシーンは無い。


ソファーに並んで座り、画面を見ている二人。
ミーナがディーの肩に頭を預ける。
ミーナを抱き寄せるディー。

リビングの外の廊下をルイジが通りかかる。
開けはなたれたドアからふと室内に目をやり、足を止める。

ルイジは立ち尽くしたまま、寄り添うミーナとディーをじっと見つめる……。


ソファーに隣り合って座っていたナミが、ジンの肩に頬を寄せた。
ジンが恐れ、同時に待っていたことだった。
そっと腕をナミの肩に回す。

目を閉じたナミの顔が迫ってくる。その唇から、かすかに、
「ディー」 と、吐息のような声が漏れた。

自分を、ジンは止めることができない…… 唇が触れ合った。

だがすぐに、「だめよ!」と、ナミが体を離した。
「そんなおずおずとじゃだめ。ディーはもっと情熱的だった」

ナミはディーが欲しいのだ。僕ではなく……

欲望に悲しみが交じり合い、
胸の奥からつきあげるものを、ジンは押さえることができなかった。
黙ってナミを抱き寄せ、激しく唇を合わせ、強く舌を吸い上げる。

ナミも応えてくる。
何も考えず、何も考えられず…… 
ジンは自分で自分を戒めた鎖を引きちぎりそうになっていた。

だがナミは、あの夜のように軽やかにからだを開いては来ない。
むしろ次第に、冷静さを取り戻していく。
「ジン…… わかった…… わかったわ……」 

ナミが自分の腕から逃れようとするので、ジンも腕の力を弱める。 
「なにが? 何がわかったというんですか?」
「あなたが、ディーよりずっとすごいってこと」

「いつもあなたは、他の男をディーと比べているのか……」 
「違うわ、そうじゃないのよ…… 
ジン、悪かったわ。私あなたを誘ったりして……」
ナミの目に動揺がある。

「ディーのことを思い出した?」

「ごめんなさい。なんだか混乱してしまって……。 
最初は雰囲気をつかんでもらえたらと、軽い気持ちだったの。
こんなこと、しちゃいけなかったわね。そうだ、ほかの部屋も見てちょうだい」
何かを振り払うように、ナミが立ち上がった。


ディーの部屋は、その後あまり使われていないようだった。
ヴェネツィアンスタイルのアンティークな家具が置かれ、
まるでホテルの部屋のようによそよそしい。

ナミの寝室のドアの前を通り過ぎ、朝食ルームとキッチンを覗く。

ナミが自分の寝室を見せようとしないのは何故だろうか。
見せて欲しいと言う方が自然だろうか。
だがそのタイミングを、ジンは逃してしまった。

「ルイジの書斎も見る? 今は私の仕事部屋になってるけど」

リビングの隣にある書斎は、天井が高く、壁は本で埋まっていた。
書き物机がふたつ、一つは窓の手前に置かれ、ナミのノートパソコンが乗っている。
もうひとつの重厚な机は、本棚を背にしていた。

「ここで書いているんですね?」
「ええ、最近は家にも帰らなくなってしまって……」
「フランコさんもこちらに?」

「いいえ、彼、この館があまり好きじゃないの。
ほとんど足を踏み入れないわ。でも私、ここでないと書けないの」

ジンは古びたダンドロの机に近づき、そっと手を触れた。
きれいに磨き上げられている。
ダンドロがここに座り、ナミはそこに……、
二人はそれぞれ自分のパソコンに文字を打ち込んでいる。

頭の中でジンは、ナミの机に自分のパソコンを並べておいてみる。
あらゆるところに漂う物語の記憶に、
少しだけ抗ってみたかった。


「ねえ、ジン……」 ナミが呼んだ。
「ルイジの仕事だけど、私、彼を仮面作家にしようと思うの」
「仮面作家?」

「そう、彼は本業のビジネスの傍ら、趣味で創作仮面をつくっている。
それがたまたま日本の能を見て、
ヴェネツィアの仮面にも能面のような魂を持たせたいと思うようになるの。
それで工房と小さな店まで開いて、
特別にオーダーメイドの仮面を作ったりしてるのよ」

仮面か…… 面白い設定だと思った。
すでに出来上がっている場面もほとんど手直ししないですみそうだ。
「それで、ミーナとはどういう関係なんですか?」

「店の前を、偶然ミーナが通りかかるの。
ミーナはウィンドウの中の仮面があまりに素敵なので、店に入って値段をきくのよ。
でもどれも特注のものだから売れないって、ルイジに断られてしまう」

ジンが引き取って続ける。
「でも彼は能面にほれ込んでいるから、
日本人のミーナに最初から惹かれてしまうんですね」


「それならあなたにぴったりな仮面を作りましょう」 ルイジが言う。
「でも高いんでしょう? 私、そんなに……」
「特別にオリジナルなものを作るんです。それなりの金額になります」

がっかりするミーナ。 
ルイジはやさしく笑って言い添える。
「でも、もしあなたが私のモデルになってくれるなら、
仮面はただで作って差し上げよう」


「なるほど、ミーナがダンドロのモデルになる……」
「ええ、それから彼はミーナに溺れ込んでいくの。
自分の仮面のモデルとして、
そして創作のインスピレーションを与えてくれる美のミューズとして……」


書斎がアトリエになっている。
窓の手前の机の代わりに、アンティークな寝椅子が置かれ、
そこに足を投げ出すようにしてミーナが座っている。

黙々とデッサンをつづけるルイジ。
ミーナの体がすこし動く。

「動かないで!」 
はっと、ミーナに緊張が走る。

ルイジは書きかけのデッサンをまるめ、ゴミ箱に放り投げる。

「ごめんなさい。でも疲れちゃったわ。すこし休ませて」 
ああと、部屋を出るルイジ。
コーヒーを持ってくる。
窓の外を眺めながらコーヒーを飲む二人。

再びミーナがポーズをとる。デッサンを始めるルイジ。

しばらく鉛筆を走らせたあと、
またルイジはデッサンしていたページをスケッチブックから引きちぎり、まるめてしまう。
ミーナは黙ってポーズをとり続ける。

「ミーナ…… 頼みがある」
「ポーズ、変えましょうか?」

「服を脱いでくれ」 ミーナは答えない。
「お願いだ」
「でも……」

「ヌードは書かないと約束した。
君にインスピレーションを得てたくさんの仮面を作った。
だがどうしてもひとつ、作りたいのに作れない仮面がある」

「それを作るためには、私が裸にならないとだめなんですか?」
「そうだ。描かせてくれ。
君には指一本触れない。約束するよ」

しばらく考えた後、
「いいわ」 と服をぬいでいくミーナ。

ルイジは、憑かれたようにミーナを眺め、やがてデッサンを始める。

寝椅子に横たわったミーナ、
窓の手前に後姿を見せて立ち、斜め後ろを振り向いているミーナ……、 
それらのミーナの顔に、ルイジは仮面を描き込んでいく。 

そして部屋の真ん中で、
ルイジが作ったあでやかな仮面だけをつけ、まっすぐに立つミーナ……。


「どう?」 
机に腰掛けたナミが、頭の中でそのシーンを再現しているジンに声をかける。

「いいと思います。
その後ディーとミーナが結ばれるときの、仮面だけをつけた二人の姿にも対応するし」

「ええ、同じようなポーズを、違う場面でディーが繰り返す……、 
そのときのディーの姿も一層印象的になるでしょう」

 

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