3-01 ラ・マスケラ―仮面― 第三章 i

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<第三章> "ヴィーナスの仮面 " 

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翌朝時間通りに現れたナミの顔を見て、ジンは胸をなでおろした。
彼女の表情に少しでも苦痛の色があったなら、
やはり映画はあきらめると、言ってしまったかもしれない。
だがナミはどこか吹っ切れたような、さっぱりとした顔つきをしていた。

「シナリオを引き受けてくれて、本当に感謝しています」
「本当に、迷ったわ……」 
「わかります。思い出したくないこともあるでしょうし」

「ええ…… でも、こう考えるようになったの。
私はこの物語をディーに委ねた。それをディーはあなたに預けた。
ならばそのディーの意思に、私は従おうって」

「ディーはあなたを作家として世に出したいと思っているんです」
「わかってるわ。でもね、私これだけでいいのよ。
これが終ったら、またヴェネツィアのコーディネーターに戻るわ」

いや、そんなことはないだろう、あなたはきっとまた書きたくなるはずだ、
ジンはそう思ったが、口には出さなかった。
とにかく今は、目の前の仕事を成功させるしかないのだ。ナミのためにも。

部屋の隅のデスクを挟んで、向かい合わせにイスが置かれている。
促されてデスクに向かいながら、ナミが、チラリと乱れたままのベッドを見た。

「すみません、昨日スイートに替えてもらうよう頼んだのですが」 
ジンは少しあわてた。
その様子に、ナミが笑い声をあげる。

「おかしいですか?」 
「ええ、おかしいわ。
あなた、隠していたものを母親に見つけられた高校生みたいだもの」

打ち解けたナミの口調に、ジンも合わせる。
「ナミさんが僕の母親であるわけないでしょう。
そうだな、密かにあこがれている年上のいとこ、あるいは兄貴の恋人ってところかな」

まあ! とまたナミが笑った。 
その声に体が反応しそうになるのをこらえる。
駆け寄ってナミを強く抱きしめたくてたまらない。

朝の光の中で笑い声をあげるナミを、ジンは見詰めた。
そして、彼女を抱きしめる事ができなくても、
この笑い声を聞けるだけでもいいじゃないかと、思いなおす。

「ヴェネツィア本島のホテルはどこも部屋数が少ないから、
たとえこの時期でもそう簡単に部屋はとれないのよ。
ましてスイートなんてずっと前から埋まってしまうの」

「でもこれから一緒に仕事をするのに、この部屋じゃ……」
そうね、ともう一度ナミは部屋を見回す。
「私はかまわないけれど……。 
夕べあなたがどんな夢を見たのか、想像するのも悪くないし」

「ひどいな、ナミさん。からかわないでくださいよ」
またナミが笑う。

その声を聞きながら、
あなたの夢だと言えたらどんなにいいだろうと、ジンは黙る。

「あら、怒ったの? それならよかった」
「よかった?」

「そう、これですっとしたわ。
あなた突然現れて、死ぬほど私をびっくりさせたのよ。
すこしくらい仕返ししなきゃ気がすまないもの」

ああ、ではやはり、
あなたはディーにそっくりな僕を見て驚いたのか……。

「どうかした?」 ナミがジンの顔を覗き込んだ。
思いがけずすぐ近くにナミの目と唇があった。

「僕はそんなに彼に似ていますか?」
ナミがうなずく。

「最初あなたを見たとき、ディーが現れたのかと思ったわ」
「全然、そんなふうに見えませんでしたよ」
「私、作家じゃなくて女優になろうかしら」
ようやく今度はジンも、ナミと一緒になって笑うことができた。

 

デスクに自分のノートパソコンを取り出し、
それを立ち上げてジンに向かい合って座ると、
ナミはとたんに仕事の顔つきになった。

「ひとつ、お願いがあるの」
「ダンドロ氏のことですね?」
「ええ、ルイジはとてもプライドの高い人だから……」
「前もって了解をとったら?」

「いいえ、彼、自分の弱みを絶対に他人に見せたくはないの。
あの物語の展開は納得しないと思うし、
下手に名誉毀損で訴えられでもしたら、映画どころじゃなくなるわ」

「事実でも?」
「だったら余計よ。プライバシーの侵害だってことになるでしょう?」
「じゃ、大幅に脚色しましょう。彼の存在は大きな鍵になっている」

ナミもそれはわかっているはずだ。
ダンドロをさらに描き込むことによって、物語はふくらみを増す。
ミーナとディーの悲恋の話だけでは弱いのだ。

だが、彼にまつわる何かを、ナミは隠したいと思っている……

「ええ、あなたの言うとおり、あの物語から彼をはずすことはできない。
だからこうしまししょう。
私、映画を見る人が、
絶対彼をルイジ・ダンドロに結び付けて考えないように、シナリオを書くわ。
その部分は全部私に任せてくれるわね?」

「いいでしょう。ただし、僕にだけは真実を話してもらえますか?」
「あなた、欲張りじゃない?」 ナミが言った。

キスじゃなくて? りょうほう……、 
欲張りね……。 
ナミはあのときもそう言った。
そして仮面をつけたまま、唇を重ねてきた……。

「ええ、欲張りです。両方、欲しいんです」
映画の中の真実と、ナミの真実と、その両方を、ジンは手にしたかった。

「話せることは、話してあげる。でも話せないこともあるの」
ナミの声が沈んでしまった。
だがナミの全てを知りたいと思う気持ちを、
ジンはどうしても押さえつける事ができない。

「あなたとダンドロ氏のことを、話して下さい」 
「彼とのことは……」 
ナミは言葉を捜していたが、やがてあきらめたように続けた。
「とても一口では言えないわ」

「結婚したというのは、嘘だった……」 ナミは、首を横に振る。
「そんな単純じゃないの。
でも、話し始めたらとても長くなってしまうし、
何から話したらいいのかもわからない。
機会がきたらきっと話すから、少し時間をちょうだい」

 

仕方なくジンは話題を変える。
「ユキさんのことですが……」 
「ユキがどうかした?」
「彼女、女優だったとか」

「あら、そんな話までしてるの?」
「ええ、彼女の出演してる作品を見ました。彼女、ミーナの役にどうでしょうか?」
「あなたとユキが、ディーとミーナ……」

ナミは少し考え込んでいたが、やがて、
「いいかもしれない。
でもキャスティングは私がどうこう言うべきことじゃないわ」 と答えた。

「まだ正式に決めたわけじゃない。
でも彼女のイメージを頭において書くことはできますか?」

「そうね……。 
でも、そうするとなんだかこじんまりまとまってしまいそうな気もする。
それよりまず私のイメージで書いてみたいわ。

それが実際の撮影の中で、どうしてもあなたやユキが納得できなかったり、
彼女が演じることができなかったら、
そのときは私が書き変えてもいいし、
撮りながらあなたが直していってもいいんじゃない?」
それもそうだ。そのほうが、ユキの演技の幅も広がるだろう。

「ユキさんが女優を辞めたきっかけとなる作品のことを、知っていますか?」
「それは聞いてないのね……」 
ナミはしばらくためらったあと、ようやく言葉を継いだ。

「私が話していいのかどうか……。 
でもあなたが彼女と競演するつもりなら、知っておいたほうがいいかもしれない。
彼女、あの通り本当に純粋なの。
あなたが見た作品ではまだ準主役だったけれど、あのあと主役に抜擢された。
でも役作りで監督や相手役の俳優とぶつかってしまって……。
彼女も引かなかったのね、結局降板されてしまったの」

「どんな役だったんですか?」
「奔放なヒロインよ」
「ユキさんのイメージと違うんじゃないのかな」
「たぶん前の映画の、男を懐深くまで受け入れる姿からの連想でしょうね」
「でも奔放というのとは違う」

「ええ……。 
監督は、もしかしたら彼女の奥底にあるなにかを、引き出したかったのかもしれない。
でもそれまでの役とあまりに落差が大きかったのね。
求め方も性急だったんじゃないかしら。

彼女、演技にずいぶん悩んで、それで実際に相手役の、
けっこうハンサムで人気のある俳優なんだけど、その彼と寝てみたんですって。
でも結果的にはかえってぎくしゃくしてしまった……」

「彼女が誘って?」
「まさか。
その男が、君の演技にはリアリティーがないとか言って強引に抱いたのよ」
「ひどいやつだ」

「でも彼女も、合意はしたのよ。それで演技に深みが増すならと、思ったのね」
「そんなわけがあるはずがない。
本当に相手のことを好きになったのならともかく」
「ええ、ユキが女として、本当にその男を欲しいと、思ったのならともかくね」

好きになったらとジンが言ったのを、男を欲しいと思ったのならと、ナミが言いかえた。
そのことにジンはひっかかる。
「愛がなくて、欲望だけでもいいんですか?」 

ナミがジンを見た。

「どうしたの? 何か私、変なこと言った?」
「いや、ただ……。 
まるでナミさんが、ユキさんを誘ったその男と同じように、
ただ欲望だけでセックスしてもいいようなことを言うから……」

「ええ、そう言ったわ。
私、その男がユキを欲しがったのと同じように、
ただその男をユキも欲しかったのなら、寝てもいいと思うもの。
愛なんてそんな簡単に、都合よく湧いてくるものじゃない」

「ああ…… あなたは…… あなたは、そういう人だ」
ジンは思わずそう口にしてまった。
ワインバーで頬を愛人の肩にあずけていたナミを思いながら。

「なんですって?」
怒りを含んだ声だった。
だが苦しそうにうつむいたジンを見て、その表情はいぶかしげなものに変わる。

「あなた、私を非難してるの? 
まるで嫉妬深い夫みたいね。
いいえ、道徳家面をした、こうるさい弟かしら?」

「そうじゃない。
ただ…… ミーナの、いや男女の性愛をどう捉えるか、
理解しあいたいと思ったんです」

「そう…… じゃ、あなたは、大事に愛を育んでからでなければ、
目の前の女を抱けない男、ってわけなのね。
一度も、突然現れた女を、何も考えず、考えられず、
ただ欲しくなったことはないってわけね。ご立派だわ」

「ナミさん、そうじゃない、そんなことを言ってるわけじゃない」
ジンは立ち上がり、ナミに背を向け、バルコニーの扉に腕を預けた。

もどかしかった。
ただナミを抱きしめて言いたかった。
何も考えず、考えられず、僕もあなたを欲しいのだと。
そして、あなたが他の男と抱き合うのを、想像するだけでも辛いのだと。

 

静かに、ナミも立ち上がった。 ジンの傍らにやってくる。
そっとナミの手のひらが、ジンの背中に触れた。
ナミの手が触れている部分が、燃えるように熱い。

そのままぬくもりを確かめるように、子供をあやすように、
手のひらは上下に動いた。

「ジン……」 と呼んだのを、「あなた……」 と言い換える。
「何をむきになっているの?」

「もう一度……」
「えっ?」
「ジンと……」

「ジン……?」

自分の名を、ナミが呼んでくれた。ディーではなく、ジンと……。

ジンはこのままナミを抱きしめたかった。
だがそうしたら、ナミの華奢な体がばらばらになってしまうまで、
力いっぱい抱きしめてしまいそうで怖い。

「ごめんなさい、さっきは言い過ぎたわ。
パク・ナムジンは、相手役の女優と、いえ誰とであれ、
簡単に、気ままに寝たりする男じゃないものね」

ジンはあふれ出しそうな想いに耐え、振り向くとナミを椅子に座らせる。
両腕を机にあずけ、かがみ込んだままやっと言葉を吐き出した。
「すみません、僕も、つい……」 
体を起こし、「何か飲みますか?」 と冷蔵庫に向かおうとした。

そのとき、ジンの左手をナミが捕らえた。
あの夜、ベッドを出て行くジンの手をつかんだように。
ナミの指が、ジンの小指のリングをまさぐっている。
あのときも、ナミは確か同じように…… 

ナミは、気づいてしまったのか!? 

だがナミは、無邪気な表情でリングをまさぐっているだけだ。
そしてそれをはずしてしまう。
「これ、演技をするときははずしてね」

えっ? と一瞬、ジンはナミの言う事が理解できない。

「だめよ。これしてらいつだってパク・ナムジンになっちゃうでしょ。
ディーにならなきゃ」
ああ、とジンは力が抜けたような返事しかできない。

「私が預かっててあげる」 
そう言うとナミは、ジンの目を見詰めながらリングを唇に当て、そのまま口に含んだ。

凝視するジンの視線を楽しむように、舌の上でリングをころがし、
やがて目を閉じ、首を少し後ろにのけぞらせた。

その白い喉を、リングがゆっくり降りていく幻影に捉えられ、
ジンはあわててナミの両肩をつかむ。
「ナミさん!」

ナミは目を開けると、ふふっと、舌を差し出した。
その上にリングが乗っている。

「私、やっぱり女優のほうが向いてるかしら」
取り出したリングを大事そうにポケットにしまうと、
あきれて口も聞けないでいるジンを見て、ナミは嬉しそうに笑った。

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