2-06 ラ・マスケラ―仮面― 第二章 vi

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<第二章> "カサノヴァの牢獄 " 

      vi


ホテルから出ると雨は上がっていた。
歩きながらジンは、さきほどのディーとの会話を思い出している。

「あなたはなぜ彼女との約束を破って、
あの物語を映画化する気になったんですか?」 
以前訊ねて答えを得られなかった問いだった。

「彼女は最初、僕を避けていました。
話すことすらまともにできなかった……」
「わかるよ、なかなか難しいだろうと思ってはいた」

「苦労しました。でも……」
「感謝している、本当に」
「だったら……」

「ああ、わかった。
理由はふたつある。まず彼女にチャンスを与えたかった」
だがそれなら、なにも自分たちの物語を使うこともないだろう。
ジンは次の言葉を待った。

「二つ目は…… それは…… 映画が完成したら話すよ」
「なぜ今ではダメなんですか?」
「悪いが、まだ言えないんだ」

「誰も彼も秘密を持っているんですね」
ジンが皮肉を言うと、電話の向こうでディーが苦笑したのがわかった。
「秘密が無いのは、パク・ナムジンぐらいのものさ」

そう言われて、とっさにジンは返事に詰まる。
「おや? ついに君にも秘密ができたか。そいつはよかった」 
ディーが笑った。

ジンはあわてて話題を変え、
ダンドロについてユキから聞いたことを手短に伝えた。
ルイジ・ダンドロが劇作家だということ、ミーナが彼に師事していたことを、
やはりディーは知らなかった。

「それなら彼はなぜミーナを世に出そうとしないんだ! 
僕はルイジを許せないよ」
ディーの声に怒りが含まれている。ジンも同じ思いだった。

「ところでディー、フランコ・オルシーニという名前に聞き覚えは?」
「フランコ・オルシーニ…… 聞いたことがある。 誰だったかな」

ディーはしばらく考え込んだが、すぐに記憶はよみがえらないようだった。
「思い出したらメールするよ」 と、電話が切れた。


スムーズとは言えないが、それでもようやくここまでたどりついた。
だが気がかりなことも多い。
まだ残っているいくつもの不可解な事柄。
次第に重く増殖していくナミとの一夜の記憶。
そして、ナミを無理やりシナリオに引きずり出したという苦さ……。


あまり空腹ではなかったので、昨夜のワインバーに足を向ける。
ヴェネツィアのバーは、どこでも美味しいつまみを出すというから、
それを試してみようと思う。
もしかしたらナミに会えるかもしれないと、ひそかな期待もあった。

アクア・アルタもなく、あれほど降ったのに舗石はところどころ湿っている程度だ。
雨上がりの空気には、いつもの水の匂いに、
どこか植物を思わせる青臭い匂いが混じっている。

バーにナミはいなかったが、フランコが一人でグラスを傾けていた。
こんばんはと声をかけると酔った眼差しがあがり、
しばらく上下に揺れたあと、ようやくジンを捉えた。

イタリアではいぎたなく酔うまで飲む者はいないと言うが、
フランコはあと一歩で、その域に達しそうだ。

「これはこれは。主演男優兼監督のお出ましだ」
「ご機嫌ですね」

「一人だと酔いがまわるのが早くてね。
この前のバローロほどではないが、いいワインだ。
よかったら一緒に飲んでください」
すすめられてジンは隣に座る。

「ナミさんは?」 
「彼女とてそう毎晩愛人としけこむわけじゃない……」
フランコの声には、不思議なことに少しの嫉妬も、自嘲もない。
まるで友人か、あるいは仲の良い妹のことを、
冗談めかして話題にするような口ぶりだ。

「じゃなぜ今夜はお一人なんですか?」
「きまってるだろう、君のせいだよ。
明日の打ち合わせのために、残った仕事を片付けてるんだ」

「それは……」 
「申し訳ないなんて、今更言わないでくれよ。白々しい」
酔いのためか、フランコの口調には本音があからさまに滲み出ている。

「本当に、申し訳ないと思っています。
無理矢理お願いしたんじゃないかと」

「どのみち彼女が決めたことだ。
それに、映画を一本作るってことは大変なことだろう? 
監督は大勢の人間をまとめあげて、
自分の思うところに引っ張っていかなきゃならない。

これくらいのこと朝飯前に出来て当然だと、素人でも思うよ。
ディーもおそらくそこを見るために、君にナミの説得を任せんたんだろうな」

「ディーのことはどれくらい知ってるんですか?」
「たいして知らないよ。
僕たちはほとんど言葉を交わしていないからね」

「ではダンドロ氏は?」

ああ、と、うめき声ともため息とも取れる声を出したきり、
フランコは黙ってしまった。

「ダンドロ氏は、よくご存知なんですね?」
しばらく沈黙したあと、ようやくフランコが口を開いた。

「明日、ナミからも話があると思うが、
ルイジを引っ張り出すのだけはやめてくれ。
それがナミがこの話を引き受ける唯一の条件だ」 
すっかり酔いのさめた声だった。

「彼はカプリにお住まいとか」 ジンは構わずに続ける。
「全て調べはついている、というわけか……」

「著名な劇作家と聞きました。
恥ずかしながら僕は知らなかったが」

「海外で翻訳が出ているのはフランスとスペイン、あとは英語圏だけだからね。
ヨーロッパの現代演劇の世界ではそれなりに名は売れているし、
一時は演劇界のモラビト、なんてもてはやされたもしたが、
もともとマイナーな世界だから……」

「今も書かれているんでしょう?」
「ああ……」 
「ナミさんが手伝われているとか」 

ジンの言葉に、明らかにフランコは驚いたようだった。
「なぜそれを?」
「知られたくなかったですか?」

「いや、昔ナミは彼に師事していたし、今も手伝っている。
ただ最近は彼もあまり書けなくなってきたし、
そろそろ引退かなと、僕は思っていた。

知られたくないというのはナミではなく彼のプライドの問題で、
緘口令がしかれてるのによく調べたって、ちょっとびっくりしたんだ」
説明は滑らかだった。

「まだお元気なんでしょう?」
「ああ、カプリの坂道を、小さな電気自動車で走り回っているらしい」

「脊髄のほうは治癒されたんですか?」
「完全じゃないが、車椅子はほとんど使わずに暮らしているようだ。
太鼓橋ばかりのベネツィアは無理だが、
カプリでは逆に都会より楽だろう。狭い島だから」

「詳しいですね。ナミさんはあなたに何でも話すんだな」

ジンの言葉に、小さなとげがあった。
フランコとナミという夫婦のありようは理解できないが、
フランコがナミに関することを全て把握していることだけはわかったからだ。
やはりそこには二人の結びつきの強さが感じられた。

 

ディーは中庭に下りる階段に座り、運河の水面を凝視している。
吐く息が白い。

流れる霧に先導されるように運河からボートが現れ、
玄関に横付けされた。
飛び降りたルイジが、もやい綱を杭に結びつける。

続いてミーナが降り立ち、階段を登り始める。
途中でディーに気づき、驚いて立ち止まる。
「ディー、どうしたの?」 

「お帰り……」 
「私を、待っていたの?」 うなずくディーに手を差し伸べる。
玄関に入る二人をルイジが階段の下から見つめている。


「寒かったでしょう?」 
「全然……」 
ディーの手をとり、「ウソばっかり……」 と、ミーナがとつぶやく。

玄関からルイジが入ってくる。
二人から目をそらし、「おやすみ」とその場を離れる。
おやすみなさいとミーナだけが答える。

ディーはルイジの部屋のドアが閉まるのを待ち、「話があるんだ」と言う。
「カモミールでも飲む?」
キッチンに入るミーナにディーも従う。

カップを前に、二人はテーブルに向かい合って座っている。
「どんな話?」 両手にカップを持ち、ミーナが訊ねる。

ディーはひとくち、カモミールを飲む。
「ルイジのこと」
「ルイジ?」
「君と彼との関係について……」

そんなことかと、ミーナはカップをテーブルに置く。
「ときどき仕事を手伝っているだけよ」

「ルイジと君は……」
「もちろん、特別な間柄じゃないわ。それを気にしていたの?」 
ディーの表情はまだ強張っている。

「じゃ君のボーイフレンドが彼に関係あるって、どういうこと?」
「何ですって?」 
「秘書がそう言ってるのを、聞いてしまったんだ……」

「ああ…… 
ルイジの仕事の手伝いに、
いろんな人の習慣やものの考え方を観察してレポートを書くの。
彼の仕事は……」

「じゃ僕も君のたくさんのボーイフレンと同じように、
観察されて、レポートに書かれたのか?」

ミーナは大きく息を吐くと、両手をテーブルの上に伸ばし、
カップの横に置かれたディーの手に自分の手を重ねた。

「ディー、誤解しないで。
私、レポートのために友達を作っているわけじゃない。
それに私が抽出するのは、その人の個人的なものじゃなくて…… 
なんて言ったらいいかな……」

ぴったりの言葉がみつからないらしい。
「つまり…… 定冠詞のつく彼、
たとえばイル・シニョーレ・ダンドロではなくて、 不定冠詞がつくだけの彼、
ウン・ウオモ(ある男)の、普遍的な属性みたいなものを取り出すの」

「意識調査みたいなもの?」 うーん、と考え込む。
「サンプリング?」 ようやく、「そうね、そんな感じ」 と答える。

「他に聞きたいことは?」
「じゃ今日は……」
「ずっとルイジの調べ物の手伝いよ。それから?」

ディーが視線を落とす。
重ねられたミーナの手をほどき、カップを手にする。

「ディー、あなた、私がたくさんの男と寝てるんじゃないいかって、
聞きたいんでしょ?」
ミーナはなぜか愉快そうだ。

その言葉に、ディーは口に含んだカモミールにむせて咳き込む。

「そりゃ、今までにあなただけとは言わないわよ。でも今はあなただけよ」
ディーが、すこし照れくさそうに笑みを浮かべる。

「コンサート、ごめんなさいね。誰と行ったの?」
首を横に振るディー。
「行かなかったの? スーザンと行けばよかったのに」
「君と行きたかったんだ……」

「今度は少し前に誘ってね。
いきなりその日の朝じゃ、行けない場合だってあるわ」
「OK。だったら明日はどう?」 

えっ!? と驚いた顔のミーナの前に、
ポケットから二枚のチケットを取り出すディー。
ミーナが笑い出す。ディーも一緒に笑う。


ひとしきり笑ったあと、
「ねえ ディー、あなた……」 と少し言いにくそうにミーナが口を開く。

「いつ、帰国するの?」
「もうあまり長くはいられない。たぶん……」
「待って」 とミーナがディーをさえぎる。
「言わないで。それは出発の日の朝まで、言わないでちょうだい。

朝、いつもと同じように一緒に朝ごはんを食べて、
それから笑って出て行って。
そうすればきっと私も笑って見送ることができる」

ディーが辛そうにうつむく。
しばらく黙っていたが、
「論文を書きあげたあとはどうするんだ?」 と訊く。

「研究室に残らないかって誘われてる」
「本当は自分だけの物語を、書きたいんだろう?」 
ミーナが目を伏せる。

ディーはカモミールを飲み干し、カップを置く。
「僕は……君のことが、欲しい……」 

「ええ…… あとで部屋に来て」 
「そうじゃない、そういう意味じゃ……」

ミーナが寂しそうに微笑む。
「でも私が来て欲しいの。
今夜はずっと一緒にいて、朝まで……」

ディーはテーブルを回り込み、ミーナの横に立つ。
ミーナも立ち上がる。どちらともなく、抱き合う。

ディーの胸の中で目を閉じ、
「私、あなたに何をあげられるのかしら……」 とミつぶやくようにミーナが言う。

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