2-04 ラ・マスケラ―仮面― 第二章 iv

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<第二章> "カサノヴァの牢獄 " 

      iv


「ナミさんが昔書いた物語を知っていますか?」

ジンは二本目のバローロをフランコのグラスに注ぎながら尋ねた。
フランコに対して次第にうちとけた気持ちになっていた。
今は手の内を見せてはくれないが、いつか時が来たら、
あるいはこちらの準備が整ったら、彼は全てを語ってくれるのではないか。
踏み込んでいけば応えてくれる男だと、思えたのだ。

「ああ、聞いている。
映画化したいというのは、その物語、つまりディーとミーナのロマンスだと?」
「そうです。それをもとに少し膨らませてと、考えています」

「それはディーが持っているはずではなかったのかな」
フランコはミーナの過去を、しっかりと把握しているようだ。

「ええ、彼が僕のところに持ち込んできたんです。
原本も、今は僕があずかっています」
「それを見せてもらいたいと言ったら?」

「いいですよ。ただし、ナミさんがシナリオに参加してくれるならね」
「断ったら?」
他人事のような言い方だった。

ジンも冷めた声で答える。
「僕が一人でシナリオをまとめ、映画化します」
「映画化を阻止すると言ったら?」

「問題にならないでしょう。原作はディーのものです。
ナミさんがそう書いている。
それに映画化にあたっては、かなり脚色が可能だ。
設定を変えてもいいし、逆に少し強調してもいい。
たとえばダンドロ氏の事故の話とか……」

フランコが、ぐびりと、音をたててワインを飲み下した。
空になったグラスを、ゆっくりとテーブルに戻す。

ジンは水の中に差し込んだ杭が、
運河の底の泥をつかんだ手ごたえを感じた。
もう一度、更に深くまでしっかりと杭を打ち込む。

「もし、実在の人物に都合が悪い事があったら、
もちろんそれは描き込まないようにしなければならない。
だがそのためには事情を知っている者の参加が、必要です」

フランコが、イスの背もたれに体を預け、目を閉じた。
じっと考え込んでいる。
やがてうめくように、 「ナミがなんと言うかはわからないが……」 と言った。


これでおそらく、ナミは申し出を受けてくれるはずだ。
ディーにすぐにでも知らせなければ。
いや、それは彼女からの正式な答えを待ってからのほうがいいだろう。
ディーにぬか喜びさせるわけにはいかない。

バーを出てフランコと別れて歩きながら、だがジンの気持ちは沈んでいた。
ナミはどうだろうか、と思う。
ナミは喜びはしないだろう。仕方なく受けるのだ。
物語の中に隠されたものを、隠し通すために。

『あなたが望んでいることは、ナミさんを苦しめるのだろうか、悲しませるのだろうか、
それとも喜ばせることになるのだろうか……』 
そう言ったユキの言葉を、ジンは反芻していた。

突然、バーのカウンターで若い男と唇を合わせていたナミの姿が浮かんだ。
胸の底にこびりつたどす黒いものが、生き物のようにうごめく。
それに突き上げられるように、やみくもにジンは歩く。
細い小路に入り込み、運河に突き当たり、橋を渡り……。

ホテルへの道もわからずに彷徨っていたが、
人の気配に誘われるように小路を抜けると、サン・マルコ広場に出た。
今夜も月が広場を照らしている。

水はすでに広場のあちこちに湧き出ていて、
細長いテーブルのような渡り廊下がいくつも連なり、人の歩く道をつくっている。
その歩道に上ると、視界が高くなり、広場全体が見渡せた。

あの夜、デュカーレ宮殿からサン・マルコの前に来て……と、
ジンは船をおりてからの道筋をたどってみる。

すると突然、館から一人でこの広場に出た道を見つけた気がした。
時計台の脇の、あの道に違いない……
館からここまで、橋は渡らなかった。ただいくつか細い通りを曲がっただけだ。

ジンは歩道で遠回りするのがもどかしく、
水溜りに足を踏み入れ、時計台に向かって走った。

そうだ、このあたりだ。

だが見渡してみても、小路には似たような壁に、
似たようなドアが並んでいるばかりで、
ナミが自分を引き入れたドアがどれなのかはまったくわからない。

ナミとあの若者は、このドアの中のどれをくぐったのだろうか。
このどれかの壁の後ろで、ナミはあの若者と抱き合っているのだろうか。
仮面をつけたナミの裸身が浮かんだ。

その前に立つのは自分だ! 

ジンは大声で呼びたかった。
ナミ! と呼びながら通りから通りへと、ナミを探して走り回りたかった。

真鍮のドアフォンの下の表札も、
いくら月が明るいとは言え、読み取ることはできない。
もっともそこにナミの名が記されていることなどないだろう。

ジンはホテルに帰るしかなかった。
どのみちすぐにナミに会うことになるのだと、言い聞かせながら。


その夜、ジンは自分がデュカーレ宮殿の牢に閉じ込められている夢を見た。
牢番の娘に助けてもらわなければならない。
だが鉄格子の嵌った窓から何度呼んでも、 娘は振り向いてくれない。
そう言えば娘の名前をジンは知らないのだ。

名前が無いの。

ナミの声が頭の中にこだましている。

私もあなたも、名前なんか要らないでしょう?

呼ぶべきだった。ミーナと。
いやあの時ジンが本当に呼びたかった、ナミという名で。
名前がなければ、二度と互いを呼びあう事など、できないのだから……。


ディーは机に向かい、手紙を書いている。

途中で書くのをやめ、まるめてくずかごに放り投げる。

引き出しを開けてKodakのロゴの入った封筒を手にすると、
中から写真を取り出す。
どれにも笑顔のミーナが写っている。

サンマルコやリアルト橋をバックに笑っているミーナ。
ゴンドラの上ではディーもミーナと肩を並べている。
ゴンドニエーリ(ゴンドラのこぎ手)が撮ってくれたのだ。

写真を封筒にしまう。

部屋を出る。
館の中は静まりかえっている。

館をあとにし、細い裏通りを何本も曲がり、
運河沿いの小路をたどり、居酒屋に入る。

居酒屋から出てくる。
また延々と、歩き続ける……。

 

翌朝は雨となった。

朝食ルームまで下りていく気がせず、
ジンはルームサービスを頼んだ。

よろい戸を全開にしても、部屋の中は薄暗いままだ。
その手前に置かれたテーブルの上の、
こんがりと焼きあがったパンの匂いをかいでも、
みずみずしいフルーツの色を見ても、少しも食欲が湧いてこない。
苦いコーヒーをすすっていると、ナミから電話があった。

「シナリオのお話、受けることにしました」 

彼女は悲しんでいるのか、苦しんでいるのか……

「ありがとうございます。これで映画の完成に一歩近づいた。
ディーも喜ぶでしょう。一度彼をヴェネツィアまで呼び寄せましょうか?」
ナミの気を引き立てたくて、ジンはそんなことまで言ってみた。

「ディーには、会うつもりはありません」 すこしの迷いも無い声だった。
「でも……」

「明日には……」 ジンの言葉をさえぎってナミは続けた。
「打ち合わせにうかがいます。
今日は仕事の引き継ぎをしなければならないので。
明日の朝、9時でどうでしょう?」

「わかりました、直接部屋に来てください」 と答えたすぐあとに、ジンは、
あなたが苦しむなら映画はやめますと、言いそうになる。
だが電話は、すでに切れていた。


長い時間、ジンはバルコニーの扉のガラス越しに、運河に降る雨を見ている。
次第に、水に閉じ込められたような気がしてくる。

いや僕は、ミーナの物語に閉じ込められてしまったのだ。
それとも、僕を閉じ込めているのは、ナミという牢獄なのだろうか? 
パク・ナムジンという名前を捨て、ただの一人の男となって、
やはり名も無いただの一人の女の中に、自ら進んで閉じ込められているのだろうか?

ジンは、あの夜持ち帰った仮面を取り出す。
どうしても手元に置いておきたくて、買い取ったのだ。

顔を仮面で覆い、部屋の片隅の鏡の前に立つ。
そしてバスローブを脱ぎ捨てる。

ナミさん…… 
やはりジンは名もない女をそう呼ぶしかない。

ナミさん、あなたも僕と同じように、全てを脱ぎ捨てて、
僕の前に立ってくれますね。

ジンは降りしきる雨の中、外の世界をシャットアウトして、
自分とナミと、ただ互いの中に相手を閉じ込め、求め合い、貪りあいたかった。
それが叶うなら、映画などどうでもよかった。


ドアホンが鳴って、ジンはあわててローブを纏う。
「ユキです。携帯に伝言をいれたのですが……」

ドアを開けると、ユキが驚いた表情でジンを見つめた。
「あの、ジンさんですか?」

そう言われて、ジンは自分が仮面をつけたままだったことに気づいた。
「ああ、すみません、驚かせたかな」

ジンはゆっくりと仮面をはずし、ユキを部屋に招じ入れる。

「お加減でも悪いんですか?」
届けられたままの朝食のプレートを目にしてユキが言った。

「いや、昨夜ちょっと飲みすぎただけです。あなたは、朝食は?」
「だってもう昼食の時間ですよ」 ユキは少しあきれた顔になる。

「じゃ、お昼を一緒に食べましょう。
ロビーで待っていてください。10分、いや5分で行きます」

急いでパソコンを立ち上げ、保存していたディー宛のメールを開く。
ミーナをみつけました、という一行だけを残してその後を削除し、
明日打ち合わせの予定、あとで電話します、と入れて送信ボタンを押す。


ジンがホテルで借りた傘は大きくて、
狭い通りを傘をさしたユキと並んで歩くのには、あまり具合が良くなかった。
二人並んで歩けるだけの幅のない通りも多いし、
無理やり並んで歩いていると、今度は人とすれ違うのが難しかった。

「そちらの傘に、入ってもいいですか?」
ユキにそう言われ、ようやくジンも気づく。
「ああ、歩きにくいですね。どうぞ」 と傘をユキに差しかける。

ジンの傘の中に入ってきたユキは少し小さく見えた。
仮装しているときは寄り添ってきたのに、
今は肩を触れ合わないように気遣っている。

「濡れますよ」
そんなユキがいじらしくて、ジンはユキの肩を抱き寄せた。
照れてジンを見上げた顔が、傘の色のためか、ばら色に染まっている。


ユキが連れて行ってくれた店は、 気さくな若者が二人でやっている、
レストランというよりビストロという風情の店だった。
昼は何種類かのセットメニューがあるだけで、夜は居酒屋になるのだという。

だが、ユキのおすすめという、
アラブ風の肉と野菜のスープをとがった米にかけた料理は、確かに美味しかった。

「イタリアじゃ珍しいですね」
「ええ、私もここでしか食べたことないんです。
でもヴェネツィアは昔から東方との結びつきが強いから、
あまり抵抗がないのかもしれません」

料理を食べ終え、ビールを飲み干すジンを見て、ユキが微笑んだ。
「良かった、食欲、戻ったみたいですね。たまにはお米もいいでしょう?」
ユキはジンを元気付けようとこの店を選んだらしかった。

「ありがとう、美味しかった。おかげで元気が出てきました」 
ジンは素直にそう言葉に出す。

「じゃ、もうひとつ、もっと元気になることを報告します」
「それはうれしいな。何だろう」
「ダンドロ氏のことです」 

「彼が見つかったんですか? 今どこに?」
ジンは思わず身を乗り出した。

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