2-01 ラ・マスケラ―仮面― 第二章 i

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<第二章> "カサノヴァの牢獄 " 

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やはりどこをどう歩いているのか、ジンにはまったくわからなかった。
居酒屋が並ぶごみごみした通りをいくつか通り、
住宅街のような一角の、小さな広場に面した館に入る。

ユキはジンを舞踏会のホストの男に、
病気の治療中で声が出せないのだと紹介した。
ナミに気づかれないようにと、打ち合わせておいたのだ。

男はユキの衣装を褒め、
美しいパートナーでうらやましい、ゆっくりしていってくれとジンの手を握る。

本番前の予行演習を兼ねて内輪で楽しんでいるのだと、
パーティーの趣旨を語る男の言葉を聞きながら、
ジンの目は部屋の片隅にたたずむ女に吸い寄せられた。

女はビロードの黒のケープを纏っている。
ドレスも黒に金の刺繍が施された豪華なものだ。
目だけを隠す金色の仮面をつけ、
色鮮やかな羽根とガラスで装飾された帽子をかぶっている。

男がジンの視線に気づき、
「ああ… 僕のパートナーも素晴らしいでしょう?」 と笑みを浮かべる。

それからユキに、
「彼もすみにおけないね。もっともナミは別格か…」 と小声でささやいた。
男がナミを呼んでくるというのを、驚かせたいから内緒にしてくれと頼む。

ジンはワイングラスを片手に、
あちこちで談笑している人々の間をユキと連れ立って歩き、
次第にその場に自分を溶け込ませていった。
いや、誰もがしているように、自分を、捨て去っていった。

音楽が流れだし、何人かが踊り始めた。
ナミは銀髪のかつらをつけた、ロマン派の音楽家のような衣装の男と踊っている。
相手はフランコだろうか? だがフランコより少し背が低い。
ユキに確かめると、相手は誰かわからないが、フランコは来ていないようだと言う。

ジンはユキを誘い、踊りの輪に加わった。
数人相手を変えると、何人目かにナミと踊るチャンスがめぐってきた。

ジンは声が出ないと、身振りで伝えてみる。
ちょうどホストの男が近くにいて、彼は病気の治療中なんだと、ナミに説明してくれた。

ナミが、「まあ、ウソでしょう?」 と笑った。
ジンが聞きたかった笑い声だった。
一緒に笑いたいのをこらえ、微笑だけを浮かべ、首を横に振る。

「私ったら笑ったりして…… ごめんなさいね」
ジンはもう一度大きく首を左右に振り、大丈夫だと唇だけで言う。
笑いかけると、ナミにも笑顔が広がった。

「でも、ずっと声が出ないままじゃないんでしょう?」 
あと少しすれば、とジンは唇だけで答える。

「よかった。顔もわからず、声も聞けないなんて寂しいけれど、
すぐに声が戻るなら、また聞ける機会もあるでしょう」 

ナミは曲が変わっても、踊りの相手を変えようとはしなかった。
明らかに、声を失った得体の知れない男に興味を持ったようだ。
名前を聞かれ、秘密だと口に指をあてる。あなたは?とナミを指す。
私も秘密と、ナミも答える。

ジンは何か聞かれると唇だけで答えたり、
ナミの手のひらに文字を書いたりした。

不思議なことに仮面をつけたナミには、
レストランで会ったときのような曖昧さがなかった。
仮面で顔を隠すことによって、安心して自分を曝しているのだろうか、
そこには闊達なあでやかさだけがある。

飲み物を欲しがったナミにワインを運び、壁側に並べられたイスに誘う。
ヴェネツィアは初めてかと聞かれ、うなずく。
サン・マルコは見たかというのに首を振り、
ナミの手のひらに、あなたが案内してくれと書く。

ナミはくすぐったいと笑った。
手のひらから、腕の内側に指を這わせてみたかった。
ナミはもっと笑ってくれるだろうか。
その衝動にジンは耐え、もう一度書く。
夜のサン・マルコはどんなですか、と。

「素敵よ。今日は満月だし。でも水が出ているかもしれない」 
みず?と唇で繰り返す。

「そう、アクア・アルタよ。
ヴェネツィア名物の高潮で、低い場所が水浸しになるの。
あと少ししたら、きっとヴェネツィアは沈んじゃうわ」

それも見たいと、ジンは指で記す。
「いいわ、見に行きましょう」

ナミはジンの手を引き、部屋の出口に向かった。
誰にもひと言の挨拶もせずに出るつもりのようだ。

ジンはホストの男と話しているユキに合図を送ろうとしたが、
ナミはそんな隙さえ与えてくれなかった。


ナミは自然に、ジンの腕に自分の腕をからませてきた。
桟橋からヴァポレットに乗る。

車掌が仮装した二人に笑いかけ、
年老いた乗客は、美しい!とナミを褒め、ナミは嬉しそうに微笑んだ。

船室の汚れた窓からは、水の表面はよく見えなかった。
運河の岸に繋がれたいかだのような、同間隔で現れるヴァポレットの船着場の明かりや、
運河に沿った通りの街灯が、ガラス越しに乱反射して見えた。

やがて左の岸辺に、ヴェネツィアには珍しい、大きく開けた空間が現れた。
空間はゆっくりと、美しくライトアップされた、
白とピンクの石が細かな模様を描く大きな建物に取って代わる。

建物のバルコニーの部分には白いレースのような飾りがついていて、
それが一層この建物を軽やかに見せていた。
パラッツォ・デュカーレ(総督宮殿)だ。


ヴァポレットを降りると大運河に沿って、
これもヴェネツィアにしてはめずらしい広い通りが走っていた。
観光客の姿も多い。
その観光客を目当てに土産物屋とレストランが軒を連ねている。

「お腹すかない?」
確かに空腹だった。パーティーではワインしか飲んでいないのだから。

目の前のレストランに入るのかと視線を向けると、
「このへんは高くてまずいの、安くて美味しいところに行きましょう」 とナミが歩き出す。

船着場の手前に開けていた空間の方向に、橋をひとつ渡って戻る。
ふたつ目の太鼓橋の上には何人か人が群れ、 大運河に背を向けて、
パラッツォ・デュカーレとその右手の建物との間の高い位置に渡された、
壁と屋根で覆われた渡り廊下のような橋を見上げている。

「溜息の橋って言うの。
監獄に送られる罪人にとっては、あの橋の小さな窓から見るのがこの世の見納め…。
とっても厳重な監獄で歴史上脱獄に成功したのは一人しかいない。
誰だか知ってる?」
ジンはうなずく。

「そう、有名だものね。カサノヴァ。
監獄も見学できるわ。昼間一人でいらっしゃい」

パラッツォ・デュカーレを回り込むと、広々とした長方形の広場に出た。
左手には高く空に伸びる鐘楼、正面には時計塔が建っている。
右にはサン・マルコ寺院。

ジンはサン・マルコを振り仰ぐのがもったいないような気がして、足元に視線を落とした。
舗石の上にはすでにあちこちに水溜りがある。
水は運河から浸水するのではなく、舗石の間から染み出ていた。

ヴェネツィアは堅固な地盤の上に建てられた都市ではない。
建物は浮島の、土と言うより泥にたくさんの木の杭を打ち込み、
その上に石を積み上げた土台の上に建てられている。

だからヴェネツィアの街のすぐ下は、土ではなく水なのだ。
ジンはその水が、じわじわと水溜りを広げていく様に気を取られた振りをする。

「やっぱり」
ナミはそう言って水溜りを覗き込むと、あっと小さく声をあげた。

ジンもつられて覗き込む。
そこには滲んだ月が映し出されていた。

 

 

 

見上げるとサン・マルコのファサードの一部、
右端の入り口上部を飾る半円形の金のモザイク画の上、
大きな丸屋根と小さな丸屋根の間に、
空中に漂う金の水滴を集めたような、月があった。

き・れ・い・だ・・・・・ とジンは唇を動かした。
き・れ・い・ね、とナミも答える。

暗い空に浮かぶ月は、まるでサン・マルコの金のモザイクの一部から抜け出たようで、
水溜りに浮かぶ月も空の月も、どちらもが現実感がない。

モザイクの細部は闇にまぎれ、ただ大きな金のシルエットがそこにあるのも、
それを見上げて、自分たちが立ち尽くすのも、やはり現実感がない。

ナミはしばらく黙って月とサン・マルコを見上げていたが、
「すっかり冷えてしまったわね。暖まりに行きましょう」 と、ジンの手をとった。


二人は仮面のまま食事をした。
誰も不思議そうな顔すらしない。
ナミだけがしゃべるのも、最初は少し注目されたが、
すぐに関心も払われなくなった。

温かいスープと、魚や手長えびのグリルをゆっくりと味わう。
最後に透明なグラッパをコーヒーといっしょに煽ると、
のどから胃にかけて熱い塊が一気に下りていった。

おいしい、とジンは唇で言う。
ナミはそのジンの唇を一瞬見つめたあと、さっと軽く、自分の唇を重ねた。

「これは?」

最高においしい、もっと、とジンは声のない言葉を形にする。
ナミが小さく笑った。

もっと…… ジンはまた言う。 その笑い声をもっと……

「えっ?」 ナミが聞き返す。

もっと笑って……

「あら、キスがもっと欲しいんじゃなくて?」 ナミは不服そうだ。

りょうほう…… ナミがまた笑う。

「欲張りね、一度に両方はできないわ」 ジンの唇が笑うと、ナミも笑う。

「行きましょう」
突然ナミは立ち上がり、
驚いて勘定を済ませようとギャルソンを探すジンを尻目に、
さっさとドアから出ていってしまう。

テーブルを見ると50ユーロと10ユーロの札が数枚、ワイングラスの下に置かれている。
ギャルソンがポケットから5ユーロ札を一枚取り出し、
さらに小銭を差し出す。
ジンはとっておけと手振りで示し、急いでナミを追って外に出た。

「こっちよ」
ナミが通りの少し先に立ってジンを呼んだ。

ジンが追いつき、ポケットから取り出した札をナミの手に握らせようとする。
「いいの。私が払いたいの」
ナミは手を後ろに回し、受け取ろうとしない。

仕方なくジンは札をしまい、
ナミの手に、ごちそうさま、本当においしかったと記した。

「もっと、って言ったわね」
えっとジンはナミを見る。

ナミの腕がジンの首にからまり、すぐに唇がふさがれた。
仮面と仮面が触れ合い、こすれる音がする。
だが仮面は少しも邪魔にはならない。

何度か唇は離れ、また重なった。
やがて舌の動きが加わると、ナミの呼吸は速くなり、 喉の奥から喘ぎが漏れた。


ナミに手を引かれ、人一人がやっと通れるような小路を通り、
幾つか並ぶうちのひとつのドアを入ると、そこは小さな中庭で、真ん中に井戸があり、
その向こうに月の光に浮かぶ運河が見えた。

壁に取り付けられた階段を上がり、建物の中に入る。
玄関ホールは寒々としており、少しかび臭い匂いがした。
ナミは黙って廊下を進み、一室にジンを導きいれる。

部屋はナミの寝室のようだったが、どこかそっけない雰囲気だった。
たまにしか使われていないのかもしれない。
ナミは部屋に入るとすぐに暖房のスイッチを入れたが、
部屋はなかなか暖まりそうもなかった。


「僕の部屋、暖房がきかないみたいです」
ミーナの部屋の戸口に、仮装のままのディーが立っている。

「困ったわね。今日は誰もいないの。布団はある?」
「毛布が一枚」
「それだけじゃこごえちゃうわね」

しばらく考えてからミーナが言う。
「私の部屋のソファーで寝ればいいわ」


かろうじてディーの体を覆っている、ソファーからずり落ちそうになっている毛布。
ディーが着ていた貴族の青年の衣装が、椅子の背にかけられている。

「ねえ、ディー」 ミーナが小声で呼んだ。

壁の近くに置かれた丸テーブルの上のランプが、
小さな円錐形の明かりを灯している。
その明かりのせいで、光が届かない部屋の隅の闇は、一層濃い。

「あなた、もう寝ちゃった?」
ディーは黙ったまま目を見開き、じっと天井を見つめている。

「それだけで寒くない?」
「寒いと言ったら?」 ディーの質問に、今度はミーナが答えない。

「ディーって誰だろう」 唐突にディーが言った。
毛布から腕を伸ばし、椅子に置かれた仮面を手に取る。
その仮面で顔を覆う。

「仮面をつけたのがディーなのか?」 
またはずす。
「それともつけていないのがディーなのか。そして僕は、ドクドはどこに行ったんだ」

「ドクドはいないの?」
「ああ、いなくなってしまった…… 
それから君は? 仮面をつけて僕と踊った女は誰だったのか?」

「仮面をつけた女は…… 誰でもないの」

「誰でもない?」
「そう、名前なんてない」
「名前がない…・・・」

ディーは毛布から滑り出て床に立つ。
仮面をしっかりと顔につける。

「こうやって仮面をつけるだけで、僕は誰でもなくなるのか。
それとも別の誰かになるのか。
貴族の衣装をまとえば貴族に、乞食の身なりになれば乞食に……」 

ベッドに身を起こし、じっとディーを見つめるミーナ。

「では、こうやって……」
ディーはシャツのボタンをゆっくりとはずし、脱ぎすてる。
「何も身に纏うものがなければ、ぼくも名前のない男になるのか」
下着も脱ぐ。 

部屋の真ん中に仮面だけをつけた姿で立ち尽くす。

カメラが、大理石の床を踏みしめるディーの素足から、
伸びやかな脛へ、そして腿へ……と上っていく。

「どう?」 ミーナが尋ねる。
「名前のない男になった?」 ディーは黙ってミーナを見る。

ミーナも、サイドテーブルに置かれた仮面を手に取りそれをつける。
それから白いローブと下着を脱ぐ。

淡い光の中で、しばらく、仮面だけをつけた二人が見つめあう。

「寒いわ」
ミーナが片手をディーに向かって差し出す。

ベッドに向かうディーの素足……

 

ナミは衣装を脱ぎ捨てるとベッドに滑り込んだ。

「続きをしましょう」

ジンは迷った。
一瞬ディーの顔が浮かんだからだ。
だがそれはすぐに消えた。

マスコミを気遣う俳優の顔も、
撮影現場で厳しく己を律する監督の顔も、すでに消えている。
仮面をつけたときに捨て去った、パク・ナムジンという名前と共に。

「あたためて、寒いわ」 ナミが言った。
「暖房が効き始めるまで、少し時間がかかるの」

ジンは衣装はそのままでベッドに入り、ナミをくるむように抱いた。
だがナミの指はベッドの中で動き回り、ジンの衣装をはぎとっていく。

「仮面は?」 ジンは首を振る。
「そうね、このままがいいわ。少し邪魔だけど」
ナミも仮面をはずそうとはしない。

「ねえ、ディー……」 ふと、ため息のような声が漏れた。

ジンは耳を疑い、興奮を押し殺し、唇で尋ねる。 ディーって?

「私達、名前がないでしょう? 
だから仮にちょっと呼んでみたの。いやかしら?」

ジンは首を振り、君は? とナミを指差す。
「ううん、私はいいの、どうせあなたには呼んでもらえないし」

ミーナ、ジンはそう呼んでみようかと思った。
だが呼ぶわけにはいかない。
しかもなぜか今、ジンはミーナと呼びたくはなかった。 

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