1-06 ラ・マスケラ―仮面― 第一章 vi

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<第一章> "…una storia nascosta dietro la nebbia…" 

      vi


ミーナのノートに書かれた物語は、
朝、空港に向かうために二人が水上タクシーに乗り込むシーンで終っていた。

 

"私は運河側の玄関に立ち、
水上タクシーで迎えに来るはずのディーを待っている。

約束の時間にはまだだいぶあるのに、
到着が遅いと少しじれていた。

飛行機の出発にもたっぷりと時間はある。
けれども、少しでも早く館を出たかった。

中庭から二階へと通じる階段をそっとうかがう。

運河が吐き出す呼吸のように、霧が途切れることなく湧きあがり、
海へと向かって流れている。

もう一度振り返ると、その霧はすでに中庭にも入り込み、
階段を這い登り、
ドアや窓の隙間から館の中に侵入しようとしている。

その霧が、ルイジの眠りを破るのではないかと不安が募る。

突然ボートが霧の中からあわられた。

まるでエンジンの音までも霧に吸い取られてしまったかのような、
唐突な現れ方だった。

ディーが私の前に降り立った。
私たちは一瞬強く抱き合う。
そしてボートに乗り込む。

ボートは館をあとにして、霧の海に漕ぎ出す。

そこは永遠に時が止まった、私とディーだけが住む、霧の中の世界だ……。"

 

ミーナの書いたファックスと物語の最初のページを読んだ者は、
このあと空港に向かった二人が、一緒に飛行機に乗らなかったことを知っている。
彼女はヴェネツィアに残ったのだ。
そして結局、ディーの元へは行かなかった。

ヴェネツィア行きが決まり、打ち合わせも終えたあと、
最後にひとつだけ聞いておきたいとジンはディーに訊ねた。

「出発までの間に、何があったんですか?」

「僕たちはその朝、水上タクシーで空港に向かった。
見えるのは真っ白な霧ばかりで、
海すら、ボートの両脇に流れる水以外には何も見えなかった」

ジンは黙ってディーの話しに聞き入る。

「空港で搭乗手続きを終え、セキュリティーチェックも通り抜けて、
僕たちはやっと少しほっとした気持ちになった。

バールでカプチーノを飲んだり、免税店を冷やかしたりしたあと、
搭乗ゲートの前のベンチに腰をおろしていた。

霧のために出発が遅れるとアナウンスがあった。
とにかく早く出発してほしかった。

ミラノまで、いやローマまで列車で行って、
霧の心配などせずに乗り込めるフライトにすればよかったと、
僕は少し後悔し始めていた。
そのとき空港スタッフが、
”ミーナ” と大きく名前を書いたボードを持って彼女を探しに来た」

「書かれていたのは彼女の名前だけ?」
「そうだ、はっきりと覚えている。
僕たち二人の名前ではなく、彼女の名前だけだった。
彼女の名前だけというのがすごくいやな感じだった」

ディーが描き出す情景は、まるで昨日のことのように生々しい。
「なんだったんですか?」

「ルイジはミーナに求婚していた。
それを断って、彼女は別れの言葉もなく別の男と出て行ったんだ。
もし君がルイジだったら、どうしたかな?」 

ディーはジンの問いに答えず、逆にそう質問した。
「僕だったら、空港まで彼女を追いかけます。せめて別れを言いたい。
せめて彼女の声を、僕に別れを告げる彼女の声を、最後に一度だけ聞きたい」

「そうか……」 
ディーはジンの答えに考えこんでいる。

いつまでもディーが口を開かないので、仕方なくジンは尋ねた。
「結局、ルイジはどうしたんですか?」

「君が言うように、僕たちが乗った水上タクシーを追いかけたんだ。
彼は自分のボートを持っていたから」

ディーはそこで言葉をきり、自信がなさそうに続けた。
「ただ、ミーナに別れを言いたかったのか、
最後に一度彼女の声を聞きたかったのか、
それとも何か他の事を考えていたのか……、それはわからないが」 

「というと?」 

「彼は僕たちに追いつくことはかった。
ミーナにルイジの秘書から電話が入っていた。
僕たちを追いかけていたルイジのボートが事故を起こしたという連絡だった。
霧のためにルイジは海路を誤り、大型客船に接触した。
幸い助けられて病院に運ばれたが、途切れがちな意識のなかで、
ミーナの名を呼び続けていると言うんだ」

予想していたことではあった。
だが実際に聞かされ、ディーの苦しそうな様子を見ると、
ジンはどう言葉を返していいかわからなかった。

「僕も残ろうと思った。だがミーナはそれを許さなかった。
彼女はすぐに僕を追いかけると言ってくれたし、
その言葉を僕は微塵も疑わなかったんだ。
だからほんの短い別れのつもりだった……」


ルイジはその事故のために半身不随になってしまった。
だがそのことも、事故の話も、ミーナの物語の中では一言も触れられていない。
ただ湿気がルイジの体によくないと、書かれているだけだ。

しかしディーはミーナが、
「ルイジは脊髄を損傷しているから、
もし助かっても車椅子の生活になるだろうって」 と、
おびえた声で話したのを聞いている。

まずそのことの真実を、確かめるべきではないのか。
半身不随という事実があったからこそ、ミーナはルイジの傍らにとどまることを選び、
ディーもそのことを受け入れたのだ。

けれどもそのことが、もしも事実でなかったなら……。 
だがジンは、心に浮かんだ疑念を口にはしなかった。

もし物語が真実でなくても、
ディーの信じてきた事が事実と異なっていたとしても、それがどうだと言うのだ。
真実など霧の中にずっと隠されていてもいい。
それを追い求めるのは自分の役割ではない。
自分の仕事は映画の中で、登場人物たちにとっての真実を描きだすこと、なのだから。


翌朝目覚めたとき、一瞬、ジンは自分がどこにいるのかわからなかった。
鎧戸がぴったりと窓を覆っていたので、部屋の中は真っ暗だ。

一晩中、見知らぬ街を歩き回る夢を見ていたような気がした。
それはまるで、ジンが眠る間際まで頭の中で組み立てていた、
ディーとミーナの物語の一場面のようでもあった。

鎧戸を開け、バルコニーに出てみる。
冬の日の出は遅く、ジンは闇が少しずつ薄まって行くのを眺めた。
その闇に濃い霧が混じり、夜はなかなか明けなかった。


朝食を終え、病院に向かう。
調査屋からの報告書には、
この病院にルイジ・ダンドロが入院していたのは確かだと、記載されていた。

だが詳しい病状や、退院後のダンドロの足取りについては、
調査中となったまま続きの報告はなかった。

病院ではすぐに事務室に通された。
マルコと名乗る若者が、ジンの向かいの椅子に座る。
陽気な笑みを浮かべた若者は、
病院の事務員というより、観光客相手の土産物屋の店員のようだった。

映画の内容や日程についてのジンの説明が終ると、
質問ひとつするでなく、
「では案内しましょう」 と言う。

その前に聞きたい事があるのだと、
ジンはノートにはさまれていたファックスを取り出し、若者に渡した。

「このファックスはこちらから送信されたものでしょうか?」 
「ああ、たぶんね。
オスペダーレ・サン・ジョルジョと印刷されているから。
もちろんファックスの機械は新しくなってるから、確かめようはないけど」

「このころ、ルイジ・ダンドロという男性が事故で入院していたはずですが……」 

若者がジンの言葉をさえぎった。
「撮影のための下見でしょう? 
今は病院の一部を見学するだけにしてくださいよ。
それ以外のことは、僕には何もできない。
まして入院患者について話せることなんかないですよ」 

それだけ言うと、時間を無駄にしたくないとばかりに立ち上がろうとする。

「待ってください。今企画している映画の原作は事実にもとづいているんです。
だから確かめておかないと、
当事者にも迷惑がかかることもあるかもしれない」
「じゃ当事者に訊けばいい」

「その当事者を探しているんです。
こちらに入院していたと聞いています」

仕方ないとばかりに、若者はテーブルのコンピューターを起動させ、
ファイルを検索し始めた。
「確かに入院してました。一ヵ月ほどです」

「どんな症状ですか?」
「それは言えない」
「完治して退院したんですか?」 若者は答えない。

「脊髄を損傷したと聞いています。半身不随になったとか」
「ああ、知ってたんですか」
「やっぱり、そうなんですか……」

若者はすこしばつが悪そうに笑顔を作った。
「でも、それほど重篤じゃない。
右足の複雑骨折も術後は問題なく回復してる」

「車椅子が必要だったと……」
「ええ、少なくとも退院時まではね」

「というとその後は、自分の足で歩けるようになったと?」
思わず声に力が入る。
だが若者はこれ以上は無理だという表情を浮かべた。

「お願いします。重要なことなんです」

しばらく沈黙した後、若者は小声で言った。
「わかってください。本当は答えちゃいけないことなんだ」

ジンは励ますように、
ジャケットの内ポケットから用意してきた封筒を取り出す。

若者はテーブルに置かれた封筒をちらりと見ると、
視線をドアに向けたまま一気に言葉を吐き出した。

「最終的なドクターのコメントには、
適切なリハビリを行えば、日常生活に支障のない程度まで治癒する可能性があると。
それから温泉治療をすすめている……」 

「温泉治療?」 
ジンの質問に、ええ、と答えながら、若者はさりげなく一冊の本を封筒の上に置いた。
それから照れ隠しのように饒舌になった。

「日本の温泉は娯楽施設だが、イタリアの温泉は治療施設なんです。
確か日本の方ですよね?」
違うと否定しても意に介さず、しばらく若者はイタリアの温泉の解説を続けた。

「彼はどの温泉に行ったのでしょうか?」
「さあ、それは…… 
ヴェネト州だったら、アバノ・テルメとか、とにかく山ほどあるから……」

「ナポリの近くでは?」
「あのあたりなら、おそらくイスキア島じゃないかな。
島全体に温泉が散らばってるし、
専門の医者や腕のいいリハビリのスタッフを抱えた施設もある」

病院内を案内しましょうと、若者が立ち上がった。
大きく広げた網が徐々に絞られつつある。
はやる気持ちにジンは、内部の見学は改めて頼むことにする。

握手を交わし、ドアに向かう。
戸口でふと思いついて振り向いた。
テーブルの上に何もないのを確認し、もう一度訊ねる。

「事故の直後、病院に運び込まれてすぐに、
脊髄の損傷や半身不随の可能性がわかるものでしょうか?」

「まさか。
そういった診断は検査を行ったあとで慎重になされるもんです。
彼の場合は早くて翌日か、もしくは手術後だったんじゃないかな」

「手術は危険だったとか?」
「いや、単に運び込まれたときに出血多量で、
彼の血液型がめずらしかったために、一時危ぶまれただけです」

頭の中で、ミーナの物語を形作る土台の石のひとつが抜け落ち、
物語の全体がゆっくりと傾いていった。


ホテルに戻り、
調査屋にイスキアでのダンドロ夫妻の足跡をたどるようメールを送る。

一方ユキは、ナミの周囲で昔のことを知っている人間を見つけ出すことはできなかった。
その報告を受けながら昼食をとり、午後は二人で図書館に行ってみた。

だが図書館に保存してあったどの新聞にも、事故の記事はない。
もっとも調査屋も、警察の記録まで含めてこのあたりのことはすでに調べていた。
不思議なことに、ダンドロの事故はどこを探っても、公には出ては来ないのだった。


「ナミさんはもう帰られたそうです」 
夕方、さきほど別れたユキから電話があった。

では本当だったのか。

ジンはナミに会うしかないと思いつめていた。
だがオフィスオンデに電話したところナミは帰宅したと告げられ、
居留守を使われたのではと疑い、ユキに確かめてもらったのだ。

「そうですか……」 
「今日、レストラン撮影の仕事が終ったので早めに帰宅したと。
ただ、今夜はカーニバルの仕掛け人たちが催す内輪の仮面舞踏会があるそうで、
そちらに行くと言っていたそうです」

「仮面舞踏会?」
興味が湧いた。ぜひ覗いてみたかった。

「お願いがあります」
「わかっています」 ユキは即座に答える。

「私も彼らと面識がありますから、
友人と参加したいと連絡したところ、
そんなのばかりだなと快くOKしてもらいました」

「僕のことはなんと言って?」
「ミラノから遊びにきた友人だと言ってあります。
貸衣装の手はずも整っています」

ユキの優秀さがありがたかった。

リアルト橋で落ち合い、貸衣装の店に行く。
小さな店だったが、店内には様々な衣裳が溢れていた。
壁は仮面にほとんど隠されている。

ジンは顔の半分を覆う、
仮面というより顔にぴったりと張り付くマスク状のものを選んだ。
後頭部でしっかりと固定すると、
ほとんど仮面をつけたことを意識しないでいられた。

衣装は考えた末、あまり目立たない、ゆったりと全身を覆う黒のローブにした。
ローブとセットになった頭巾をかぶる。

鏡の中の姿からは、国籍も年齢も失われていた。体つきもわからない。
華やかな装いの女たちを引き立て、
女たちをその視線で臆面もなく愛でる役を負わせられた、
名も無い、ただの一人の男となった。

ユキは、オレンジ色の無数の花をあしらったドレスを選んだ。
袖には火の鳥をあらわしたような翼がついている。
髪の毛もターバンですっぽりと覆い隠す。

アイボリーの陶器のような、顔の全てを隠す仮面をつけると、
やはり一切の属性が失われた。
「誰だかまったくわかりませんね」

「そのほうがいいでしょう?」 

ユキの声にジンは驚いた。
それまでの硬質さはすっかり消え、
どこかあどけない、けれども艶めかしい共犯者の声になっている。

仮装と仮面によって、
見たこともない、計り知れない魅力をもった女が立ち現れた……。

ユキがそっとジンに寄り添う。
ジンは迷うことなくユキの肩を抱き、リアルト橋を渡った。

まだカーニバルには少し早いので、二人の姿は目立っていた。
だがヴェネツィアという舞台は、役を与えられた役者をいとも簡単に受け入れる。

観光客は思いがけず目にすることになったカーニバルの片鱗に触れて喜び、
二人を写真におさめる。
ヴェネツィアっ子は、カーニバルの宣伝をしてくれる同志とでも言うように、
親しげな視線を送る。

「仮面をつけた感覚は、実際につけてみなければわかりませんね」
「ええ、世界が変わって見えるでしょう?」
「ほんとうだ。僕は誰なんだろう」

「誰にでも、なれます……」 湿りけを帯びた声が答えた。

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