1-05 ラ・マスケラ―仮面― 第一章 v

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<第一章> "…una storia nascosta dietro la nebbia…" 

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ヴェネツィアンスタイルの館では、
ダニエリよりも個人の邸宅に近いカ・ドーロが、美術館になっているという。
手っ取り早く雰囲気をつかめるならと、ジンはユキを促してその館に向かった。

「15世紀に建てられたヴェネツィアン・ゴシックの最高傑作で、
正面の壁が黄金に輝いていたことからカ・ドーロ、黄金の館と言われているんです……」

ユキが説明を始めたのを、ジンは制した。
「いいんですよ、そんなこと。
それより運河に面した玄関と中庭、それからもし可能ならバルコニーのある大広間を見たい」

柱が並ぶ中庭のはずれは、大運河に面した玄関だった。
床の一部には、赤褐色やくすんだ緑の色大理石で見事な幾何学模様が描かれている。
だが吹き抜けとなった部分の補石には、ところどころ苔が生えていて、
地面のすぐ下にある水のためだろうか、あるところはわずかに傾斜し、別のところは波打っている。
浮き彫りのある四角い井戸の石は、触れてみると少し湿っていた。

大理石の階段も申し分ない。
ここは使えると、ジンは思った。
二階と三階の、すかし模様が施された柱が特徴のバルコニーは、
大運河を望む贅沢な場所だったが、ルイジ・ダンドロの館にしては豪華すぎた。
むしろカーニバルの初日の仮面舞踏会の舞台にいいかもしれない。

だがバルコニーはまだしも、美術館になっている内部で舞踏会の撮影は無理だろう。
ジンは何枚か写真を撮り、
さらにふさわしい館を探す必要を感じながら、バルコニーから運河を眺めた。

 

傍らに立っているユキから、かすかに若草のようなコロンが匂う。
冬枯れた色彩の乏しいヴェネツィアにあって、
その香りは未だ眠っている緑の芽吹きを予感させた。

そういえばナミは何も香りをつけていなかった。
霧に覆われればその姿は、直前まで存在したことさえ疑わしくなるほどに、
完璧に失われてしまうに違いない。
匂いすら残さずに。

霧を鎧にして、彼女は何を隠そうとしているのか……

…una storia nascosta dietro la nebbia…
「ウナ・ストーリア・ナスコスタ・ディエトロ・ラ・ネッビア……」

何度も呪文のように繰り返してきた言葉が、口をついて出た。
ユキは何も言わない。

いつのまにか、運河に反射していた弱々しい冬の陽射しは消えかかっている。
代わりにバルコニーには、
冷気にからみつくような霧の粒子が立ち昇ってきた。

 

「こちらでは住民票のようなものを見ることは出来ないんですか?」
ジンが思いを引き戻すようにして尋ねると、ユキもまた優秀なコーディネーターの声で答える。
「無理だと思います。調査屋をやとって地道に調べるしかないと……」

「できるだけのことはもう調べました」 
「となるとナミさんの周囲で、
昔のことを知っている人を探し出して話を聞くくらいしかないですね」

そう言いながらも、ユキの表情は暗かった。
ジンの依頼を受けたのを、後悔しはじめているのかもしれない。

だがジンはユキの逡巡を無視し、是非そうしてくれと頼む。
また、明日は9年前にルイジ・ダンドロが遭遇したかもしれない事故について調べに、
一緒に図書館に行ってもらうことにする。

あとは病院か……

「そうだ、オルシーニ夫妻の住まいはどちらですか?」 ふと思いついてジンは訊ねた。
「オフィスの上です」

リアルト橋からサン・マルコ広場に向かう細い通りにあるオンデのオフィスは、
比較的新しい石造りの建物だった。
とても物語りの中の館とは思えない。

明日の朝、ファックスに印刷された病院にアポイントを取ってもらうように頼むと、
ジンにはもう他に思いつくことはなかった。
ディーに送るナミの写真が欲しかったが、それは自分で撮ることもできるだろう。

カ・ドーロを出ると、ジンはユキを夕食に誘ってみた。
だがユキは友人と約束があるのだと断り、帰っていった。

 

ジンがオフィスオンデにとってもらったホテルは、カナルグランデに面した5つ星だった。
ダニエリに変更しようかとも思ったが、
豪華な総督の宮殿はミーナとディーの舞台にはならないだろうと思い直す。

ここも古くは貴族の館だったというが、ロビーも部屋も内装はモダンに改装されていた。
ただ、チェックインの時には気づかなかったが、
ロビーの奥がガラスの天井で覆われている広間で、
以前は運河に面した中庭だったのだろう、真ん中に井戸があった。

ホテルのレストランで夕食を済ませ、部屋に戻る。
運河側のジュニアスイートだ。

この仕事を始めたころは安ホテルにしか泊まれなかったのに、
いつのまにか豪華ホテルのデラックスルームが当たり前になっている。
スタッフと一緒のときはスイートをとることも珍しくない。
だがカメラマンや助手が到着するまでは、これで充分だった。

バルコニーに出てみる。
カナルグランデを挟んで対岸左手に、鐘楼とドームの丸屋根が見える。
サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会、
ペストの終焉に感謝をささげるために立てられた教会だと、ガイドブックにある。

目の前の運河を、ヴァポレットやゴンドラがゆっくりと行き来している。
それらを、夜の闇から湧き上がってきたような濃い霧が、覆い始めていた。

 

ドクドがディーの役にジンを選んだのは、ジンが彼に似ているからではない。
ことさら問うたわけではないが、
ジンはドクドがそんな理由で配役を決める人間ではないと知っている。

だが、二人は良く似ていた。
顎のラインや口元も似ている。骨格が似ているから声も似ている。
目元だけは違ったが、同じようなメガネをかければ、それも気にならない。

今のドクドは少し肉がついて、
そのためかジンのしなやかに引き締まった印象とは違う、成熟した落ち着きをただよわせているが、
若いころの彼は、ちょうど今のジンのような肉体を誇っていたはずだ。

そのことを承知しているジンは、
フランコが驚いたのは、自分を見てディーを思い出したからではないのかと疑っていた。

だが、それならナミはどうだろう。
これほど似ているのだから、彼女の素振りにもなんらかの感情が表れるはずだ。
だがナミには、昔の恋人を思い出させる男に出会って、
気持ちが揺れたようなところは少しもなかった。

ノートを見て動転したように見えたのもジンの気のせいで、
ちょうど後ろから声をかけられて驚いただけなのかもしれない。


ジンは急に徒労感に襲われた。
自分は恐ろしく見当違いのところで、無駄な時間を費やしているのではないのか。
ナミはミナミ・ダンドロなどという女ではなく、本当にナミ・オルシーニなのかもしれない。
ナミやフランコの態度は気になるが、それも思い過ごしかもしれないのだ。

ベッドにもぐりこみ、もう一度ナミとフランコの言葉やしぐさ、表情を思い出してみる。
すると昼間つかんだと思った確信は、頼りないただの予想となっていく。
いや予想ですらない、そうあってほしいという願望に過ぎない。 

小さく笑ったナミの声をもっと聞きたいと、ジンは思った。


館の中は暗く、静まり返っている。
ミーナの部屋。
テーブルの上に鍵が、メモと一緒に置かれている。

『困っている旅人に宿を提供できて光栄だよ。 
彼は運が悪かったのだろうか、それとも良かったのだろうか……。
仮面舞踏会で会おう。 旅人も連れてきたまえ。   ルイジ』

ミーナの部屋のベッドの上に、仮面と、
昔の貴族の女性が着たような、ワインレッドのベルベッドに、
金色で丹念に刺繍が施されたドレスが用意されている。

ミーナから鍵を受け取り、ディーも廊下の奥に幾つか並んだ扉のひとつに入る。
部屋は寒々としているが、
やはりベッドの上に、貴族の若者の衣装が広げられている。

それぞれの部屋で衣装に着替え、仮面をつける二人。

運河側の玄関からゴンドラに乗り込む。
ゴンドラのこぎ手も仮面をつけている。


運河の水はなめらかで、こぎ手の操る櫂にわずかに揺れるだけだ。
水は、建物から漏れる光や、街灯の光を映し、いく筋ものにじんだ線を描いている。
その水の上をゴンドラは滑るように進んでいく。

街のざわめきは、運河にかけられた橋をくぐるときだけすこし大きくなるが、
ぎっしりと軒を連ねる館の間に入り込むと、
ひたひたと、水が建物の裾を洗う音が耳につくほどの静けさだ。

やがてある館の、煌々と灯火が灯された、運河に向かって開けた玄関口に着く。
ホテルのロビーのように、この館は中庭を広間に改装している。
二階へと続く階段を、手を取り合って登り、大広間に入るディーとミーナ。

そうだ、ここはダニエリのようなきらびやかな館なのだ。
ヴェネツィアングラスのシャンデリアがきらめき、バルコニーからは大運河が望めるような。

奥に仮面をつけたルイジが、大勢の友人や女たちに囲まれて座っている。
おびただしい量の酒と料理。
食べ、飲み、笑い、踊る人々。
華やかな宴に誰もが酔いしれている。

ミーナとディーにも、人々の熱が感染していく。


バルコニーに出る二人。

「これがキリスト教の行事とはとても思えないな」
「ええ、肉断ちをする前の祝祭と言っても、これじゃただのドンちゃん騒ぎのお祭りだものね」

ミーナは手すりに持たれかかり、部屋のなかを見回している。

「でもだからこそ、僕たちも参加できる。
それにこの仮面のおかげで、
自分がまるで、ヴェネツィアのドージェ(総督)の催す宴に招かれた、
昔の旅人のような気持ちになるよ。本当にこいつはすばらしい」 

「そう、仮面と仮装がなければ、私たちはいつも西洋の中に混ざり込んだ、異質な東洋だわ。
いくらヴェネツィアが昔から東方に開かれていたと言ってもね」
ミーナの口調に、かすかに苛立ちのようなものがある。

「いつも、自分を異質だと感じている?」
「そういうわけじゃないけれど…… 」 としばらく言葉を捜した後、
「そうね、それはあるわ……」 とミーナは答える。

「国には帰らないの?」 
即座に、ミーナは首を横にふって否定する。

「私、生まれた国になじまなくて、もっと生きやすい場所を探してここに来たの。
結局、どこにいても異分子なら、
異分子を異分子として受け入れてくれるところのほうが生きやすいの。 
あなたは? あなたはそんなふうに感じたことない?」

仮面の中の真剣な眼差しを、ディーはうなずきながら受け止める。

「僕だって、国が息苦しくて逃げてきた口さ。
でも、ヴェネツィアを最後に帰国するつもりでいる」
「居場所を見つけられなかったの?」

「いや、というより…… どこにいても、自分自身からは逃れられないだろう? 
自分の中に国が、いやな部分も何かも一緒くたに、しっかり居座ってるんだから」

ミーナはその言葉を反芻するようにしばらく運河に視線を泳がせていたが、
やがてディーに向き直った。

「あなた、自分の中に国があるのなら、それでいいじゃない。
それって、自分のいるところが国ってことよ。
ひっかかったところで精一杯生きてみて、
また大きな流れに根こそぎ流されたら、流されていけばいい」

「君は強いね……」 
「違うわ。あなたこそ強い。私、自分の中に国があるなんて言えないもの。
それにあなたより、絶望の度合いも深い……」
「絶望?」 

「そう、絶望よ」 

ミーナが笑い出す。まるで希望と言ったかのように楽しげに。
それから片手を、ディーに向かって差し出す。
ディーがその手をとり、二人は踊り出す。

踊りながら広間に戻り、
やがて大勢の人の踊りの輪に加わり、次々に相手を変えて踊り続ける。

「ミーナ……」と、何人めかの踊りの相手が耳元でささやく。
「そのドレス、すごく似合ってるよ」
「ルイジ?」

「ああ、よく来てくれた。今夜はもう話さないぞ。ずっと君と踊るんだ」
ミーナの腰を抱き寄せるルイジ。

笑いながら次の相手の腕の中に逃れ出ていくミーナ。

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