1-04 ラ・マスケラ―仮面― 第一章 iv

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<第一章> "…una storia nascosta dietro la nebbia…" 

      iv


ぴったり30分後に現れたグレーのスーツ姿の女は、
バッグの中から名刺を取り出すと、ユキと名乗った。
「ヴェネツィアに暮らして3年になります。
ナミさんほどではありませんが、充分お役に立てるはずです」 

ストレートの黒髪を長く伸ばしたユキは、薄化粧しかしていなかったが、
それが自分の一番美しい姿だと知っているようだった。
ジンの自己紹介に少しもたじろがず、自信に溢れた微笑みを浮かべる。
少し硬質な印象は、異国に暮らす者が知らずに身につけてしまう、共通の鎧のせいだろうか。

確かにユキは、ナミの絶対の信頼を得ている優秀なコーディネーターなのだろう、
よどみなく経歴や守備範囲を話し続け、最後に、「では何から始めましょうか」 と言った。

「あなたにお願いすることにしてもいい」 
ジンの言葉に、ユキはいぶかしげに口をつぐんだ。

「あなたに依頼するにあたって、お願いがあります」 
ミーナの物語のコピーを取り出しながらジンがそう言いかえると、
今度は即座に「うかがいます」と答える。

「僕はどうしてもナミさんと仕事がしたい。
彼女にはコーディネーターとしてだけではなくて、
もっと深く今度の映画に関わって欲しいと思っています」
「と言うと?」
「シナリオに参加してほしい」 
また、ユキが黙った。

「どうしましたか?」
「おっしゃっている意味がよくわかりません」
「ナミさんがチーフコーディネーターを引き受けてくれるという条件で、
あなたにも動いてほしい。彼女一人では大変でしょうから」

「それは問題ないと思いますが、さっきおっしゃったシナリオとはどういうことなのか……」
「ロケハンや撮影のコーディネートとは別に、
もしナミさんが僕が探している人なら、つまりこの物語の作者なら、
彼女にシナリオの共同執筆を頼みたいのです」

ジンはナミに、率直にディーの申し出を切り出すつもりでいた。
ディーの手元には写真がなかったので、ジンはミーナの顔を知らなかったが、
彼女がミーナである可能性は高かったし、すぐにでも話はまとまると思っていたのだ。

なのにナミにかわされてしまった。
だがそのことこそ、ナミがミーナ、即ちミナミ・ダンドロである証拠に違いないと、
ジンは強引に結論付けた。

さりげなく逃げられたからこそ余計追いたくなっているのだと、思わないこともない。
だがすでにジンは、霧の向こうに逃げていくものをずっと追ってきたのだ。
今、かすかに晴れた霧が再び視界を覆う前に、
目の前に見えたものを捕えたかった。

「これは僕からのあなたに対する依頼ですが、
ナミさんが、ミナミ・ダンドロであるという確証をつかんでほしい」

ユキはしばらく考え込むように目を伏せ、やがて視線をゆっくりとジンに戻した。

「でもナミさんは、オルシーニ夫人です」
「あるいはオルシーニ氏と結婚する前、ダンドロ氏と結婚していたのかもしれない」
「彼女に直接訊いてみたらいかがでしょうか?」

「彼女は僕に訊く間も与えずに、あなたを紹介してきた。
それが答えのような気もするが、僕には確かめようがないのです」
「もしナミさんがそのことを知られたくないのなら、
私はあなたの依頼を受けるわけにはいきません」

おそらく彼女はナミの庇護の下にこの仕事をしているのだろう。
へたなことをしてナミの信頼を失いたくはないのだ。
「あなたに受けてもらえないなら、他の人に頼むまでです」

ユキの形よく整えられた眉が少し翳った。
「もちろん、報酬ははずみます」 その言葉に、ユキの眼差しがきつくあがる。
「そういうことではありません」
「ではどういうことですか?」

「つまり… 
あなたが望んでいることは、ナミさんを苦しめるのだろうか、悲しませるのだろうか、
それとも喜ばせることになるのだろうか、ということです」

「それは、わかりません。
ただ、もしミナミ・ダンドロが見つからず、 見つかってもシナリオに参加してくれないとなると、
プロデューサーは映画化をあきらめると言っているんです。
だからまず最初に、ミナミ・ダンドロを見つけなければならない。
もしナミさんがミナミ・ダンドロでないなら…… それならそれでいい。
そしたらコーディネートのかたわら、ミナミ・ダンドロをさがしてくれと、彼女にも頼むだけです」

ユキが迷っているのがわかった。
自分の中に芽生えた好奇心を、押さえきれずにいる。
「ではこうしませんか」 ジンはユキの迷いに道をつけるように言う。

「彼女がミナミ・ダンドロではないという確証を、つかんでください」

ほんの数秒後、ユキがうなずいた。


レストランを出ると、ジンはユキの案内で少し周辺を歩いてみることにした。
まずサン・マルコ寺院やデュカーレ宮殿を見るべきだというのを断る。
観光客が何をおいても最初に訪れる教会と宮殿だと知ってはいたが、
その二箇所は、できればナミに案内してもらいたかった。

ユキに、道に迷ったような気分になる細い裏通りを歩きたいとリクエストする。
「もうロケハンですか?」
「ええ、カーニバルの初日に到着した主人公が、
ミーナに手を引かれてたどる通りや、特に迷路のような小路を見たい」

おおまかなストーリーと背景はレストランで説明してあった。
「向かうのはルイジ・ダンドロ氏の館、でしたよね……」
「古い貴族の館です。
細い通り側の小さな玄関と、運河に面した、小船を横づけできる大きな玄関と二つあって。
でも普通は細い通り側から入るんです」

「もしかして運河の玄関を入ったところは、真ん中に井戸のある中庭ですか?」
「そうです、中庭の奥には二階と三階に登っていく外階段がついている」
「一階は倉庫で、二階と三階が住居になっていて……」
「そんな館を知っているんですか?」

早くも探しているものが見つかったかと、ジンの声に喜びが滲む。
だがユキは首を横に振った。
「典型的なヴェネツィアンスタイルの古い館です。
たくさんありますよ。今では美術館になったり、ホテルになったり……」


「あなた、名前は?」
「ドクド」
「どくど? 呼びにくいわ」
「好きに呼んでくれたらいい」

「ドクさん… 」
「それじゃ目上のおじさんだ」
「どくちゃん……」
「親戚の叔母さんがそう呼んでた」

  
「好きにって言わなかった?」
「それが好きな呼び方?」
「そうじゃないけど…… 
じゃあ、そうね…… ディー、あなたはディー」
「ああ、それがいい。君は…… 確かミーナって」
ええ、とミーナが微笑む。

通りには仮面をつけた二人連れや、
仮装をしたグループがひしめきあっている。

それらの人びとの肩にぶつかり、
あるいはぶつかるのをよけながら歩いているうちに、
ディーは人込みにまぎれて、ミーナを見失ってしまう。

夕暮れが迫り、街灯がともり始めていた。
早くも街の建物は闇に溶け込もうと輪郭をぼやかせている。
一人取り残されると、
人の群れのざわめきが空から降ってきたように大きくなった。
ぐるりと周囲を見回すディー。

黒や白の仮面、仮面からのぞく金髪のかつら、死神の黒いマント、
きらびやかな時代衣装、女の真っ赤な唇、白い胸元を隠している扇、
そしておびただしい数の、空洞のように仮面に穿たれた目の形の穴……。

途方に暮れた子供のように立ち尽くすディー。
辺りを見回し、数歩先の細い小路を覗いてみる。
人の波に押し流され、奥に進む。

突然人の姿が途絶え、小路の奥に取り残される。
踵をかえし、今入って来た小路を戻る。

戻ったところは一層闇が濃くなっていて、
さっきとは違った場所に出てしまったような錯覚に捉われる。

そのとき、ざわめきを切り裂くように、するどい爆発音が上がる。

花火だ! 誰かが叫ぶ。

だが空を見上げても花火は見えない。
カーニバルの開幕を告げる花火を見ようとして、
固まりとなった群衆が同じ方角に向けて一斉に動いていく。

その動きに逆らいながら、
ディーは通りの真ん中で「ミーナ!」と大声で叫んだ。

次第に引いていく群集の波、
まばらになる人影のなかに、立ち止まり動かないでいる影が二つ、 ディーとミーナだ。

「ミーナ!」 ディーはもう一度その名を呼ぶ。

ミーナはただ、笑っている。 


どこでも撮れる。
ヴェネツィアの小路はどこを撮っても絵になる。

ユキに案内されながら、ジンはもう一度それらの小路に、
異国の街で出会った男と女を歩かせてみる。


もう迷子にならないようにと、ミーナはディーの手をとっている。
ときどき顔を見合わせ、笑いあう二人。
意匠を凝らした、素晴らしい仮装の男女に出会うたびに立ち止まって眺める。

しっかりと繋がれた手のアップ……

やがて二人は曲がりくねった小路の奥の、古い館に着く。


典型的なヴェネツィアンスタイルの館というのを見たかった。
だが、豪華な館からそれほどでないものまで、色々なのだという。

「豪華というと?」
「たとえば、昔のヴェネツィアの総督ダンドロの館で、
今は5つ星ホテルになっているダニエリとか……」

「今なんて?」
「ダニエリ、ですか?」
「いやその前、総督の名前……」
「総督ダンドロ……」
「ダンドロ…… ミーナが下宿していたのがその館ということは?」

それはあり得ないと、即座にユキは否定した。
ゲーテの時代にはまだだったが、ワーグナーはすでにホテルとなったダニエリに投宿したという。
とにかくダニエリは普通の館などではなく、
あの手の建物の中で最高に豪華な宮殿なんだと。

「ダンドロという名前はよくあるんですか?」
「さあ、何人もヴェネツィア共和国の総督を輩出した名門中の名門の家系ですから、
ヴェネツィアっ子ならよく知った名前でしょうけれど、そう数が多いとは思えません」

有名な貴族の末裔が、小さな館に暮らして下宿屋などをやっていることがあり得るのだろうか。
ジンが疑問を口にすると、
元貴族といってもきっと傍系なのだろう、
それに館の修復や維持にかかる経費が大変なので、
そんなことをしている人もいるかもしれないと、ユキが意見を述べる。

「たんねんにヴェネツィアを見ていくと、
中に見捨てられた廃屋寸前の建物もあるのに気づかれると思います。
目ぼしいものはホテルとなったり、裕福な外国人に買われたりしましたが、
暮らしにくい街ですし、ヴェネツィアを捨てて、
本土の快適な住宅に移り住んでしまう人たちも多いんです」

そういえばミーナも、ルイジ・ダンドロの体によくないからと館を人に貸して、
あのときヴェネツィアを出たのだ。
もしかしたらミーナとルイジは、今もナポリ湾を見下ろすどこかの高台で、
ヴェネツィアの霧とは無縁の生活を送っているのかもしれない。 

ジンは自分がどこに向かっているのかもわからずに、
どこを曲がっても細いばかりの小路をユキに連れられて歩きながら、
ふと捉われた考えをなかなか振り払うことが出来なかった。

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