1-03 ラ・マスケラ―仮面― 第一章 iii

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<第一章> "…una storia nascosta dietro la nebbia…" 

      iii


ジンはチェックインすると荷物もほどかずに、
オフィスオンデという、
外国人のためのCM撮影や雑誌取材のための現地コーディネートの会社に向かった。

まずはヴェネツィアに熟知した優秀な人間を確保する必要がある。
概要はすでに送ってあり、内諾は得ていたが、正式な契約はまだだった。
それにひとつ、確かめなければならないこともあった。

ジンが名前を告げると、カウンターの奥の女性スタッフが立ち上がり、
申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「すみません、シニョーラ・ナミから先ほど連絡がありまして、
実は午前中のレストラン撮影が長引いて、少し遅れてしまうとのことです。
どういたしましょうか?」 
ふっくらとした、人のよさそうな若い女だった。

「僕ならかまいません。ここで待たせてもらいます」

女は電話をかけ、二言三言話したあと受話器をジンに向かって差し出した。
「どれくらい長引くかわからないそうです。
直接彼女と話していただけますか?」

受話器からは挨拶を交わす間もなく、きびきびとした声が流れてきた。

「しょっぱなから本当に申し訳ありません」
「いや、だが僕はどうすればいいのかな」
「お食事はおすみですか?」

まだだと言うと、今撮影しているレストランに昼食がてら来てもらえれば、
撮影の合間に話が出来るという。


レストランへの道もホテルからオンデまでの小路と同じように、
地図で予想するよりはるかに細く、曲がりくねり、入り組んでいた。
幸い迷いもせずに到着すると、ギャルソンはなにもかも承知していると、
ジンを居心地のよさそうな片隅の席に案内した。

壁にはヴェネツィアを描いた古い銅版画がかかり、窓からは淡い光が店内に差し込んでいる。
まだ時間が早いためか、客はまばらだった。

おそらく撮影は、エル字型に折れ曲がったコーナーの奥で行われているのだろう。
ジンの席からは見えないが、ときどき人の動く気配や、
フラッシュの光が壁に漏れるのがわかった。

ナミを待ちながら、ジンはオンデのスタッフのエリーや、
社長のフランコ・オルシーニとのやりとりを思い出していた。


「シニョーラ・ナミは、結婚しているんですか?」 
ジンはナミと電話で話した後、エリーに尋ねてみた。
「まあ!」 
いきなりこんな質問が飛んでくるとは思っていなかったのだろう、エリーは驚いたようだった。
だが、すぐにいたずらっぽい目つきになる。

「ええ、残念ながら」
「そうですか、美人と聞いていたから…… 
その幸せな相手はこちらの方ですか?」

そう、とエリーがうなずいたとき、横の扉から男が入ってきた。
ジンより少し背は低いが、引き締まった体つきをしている。
革のコートは濃いチョコレート色で、くすんだ金髪によくなじんでいた。
全体にラフな格好だが、ジーンズの足元の靴も、
手に持ったブリーフケースも上質な素材で、隙がない。

「エリー、いくら君好みのハンサムな東洋人にでも、
僕の個人情報を漏らしたりしないでくれよ」 

「あら、フランコ、あなたこそ私の好みをばらさないで欲しいわ。
でも予定より随分早く終ったのね、
ナミなんか例によっていつ終るかわかんないっていうのに」

二人は頬を寄せあうイタリア式の挨拶を交わしたあと、ジンに向き直った。
「こちらシニョール・オルシーニ、
その幸せなヴェネツィアっ子でオンデの社長です」

では彼が、ナミ・オルシーニの夫なのか……

コーディネートをオフィスオンデに依頼したのは、評判がよいからだけではなかった。
調査屋からの報告リストに、ミーナの候補としてまっさきに名前が挙がっていたのが、
オンデのスタッフであるナミ・オルシーニだったからだ。

情報によると彼女は、年齢、イタリアでの履歴など、
多くの点がドクドの記憶の中のミーナと一致していた。
ナミも、ミナミの俗称だと取れる。
ただ結婚相手の名前だけが違っていたのだ。

男はほがらかに笑いながら手を差し出してきた。
「社長兼、こきつかわれている一スタッフですよ。フランコと……」 

ジンが顔を上げると、一歩近づいてきた男の動きが止まった。
「君は……」

ブルーの目はどこに焦点があっているのかよくわからない。
ジンの後ろの、別の誰かを凝視しているようでもある。

ジンが、「よろしく、パク・ナムジンです」 と名乗ってその手を握っても、視線は固い。
だがジンの戸惑いが伝わったのだろう、
「失礼、どこかでお会いしたような気がして……」 とフランコは謝った。

ジンは視線の芯を捕らえようとその目に見入る。

「あるいは、僕に似た人が……」 
「そうだ!」 最後まで言わせずに、明るい声でフランコがさえぎった。
「あなたの映画を見たんだったかな」

イタリアで、ジンの映画は上映されていない。
ジンがバッグからDVDのパッケージを取り出すと、フランコはさりげなく付け加えた。
「あるいは映画雑誌で拝見したか……」

「では僕の最新作の『メトロ』は?」 フランコが首を振る。
「申し訳ないがそれはまだ……」 
横にいたエリーが興味深げにこの会話に聞き入っている。

「よかったら観てください」 ジンはどちらにともなく言う。

「もちろんです。あの、できれば……」 エリーがDVDを見て、それからジンを見た。
「サインしていただけますか?」 
「ああ、そうだ、是非……」 フランコの声はあくまで明るい。
だが、サインするジンの傍らで、フランコの緊張はほどけていなかった。


ナミはなかなか姿を見せず、代わりに料理が運ばれてきた。
生ハムや焼き野菜の盛り合わせををたいらげると、次に運ばれてきた皿には、
イカ墨の黒とトマトの赤、そして小麦色と、三色のスパゲッティーが乗っていた。

風味の良いチーズで和えられた三つの色をフォークにからめながら、
ジンはとりとめなく思いを巡らせていく。

ディーとミーナという一組の恋人、ミナミとルイジ・ダンドロ、
そしてナミとフランコ・オルシーニという二組の夫婦……

ジンの頭の中には、ミナミ・ダンドロをさがす現実の問題と、
ミーナの書いた物語と、これから作り上げる映画とが、
皿の上のスパゲッティーのように混ざり合ってあっていた。


「お口にあいませんか?」 

テーブルの傍らに、女が立っていた。
部屋の片隅の壁を照らす、ヴェネツィアングラスからこぼれる灯火のような色合いの、
パンツスーツを身に纏っている。

ジンはあわてて立ち上がった。
女の背丈は、ディーから聞いていたミーナと同じくらいだ。

「ナミです」 

差し出された手はひんやりと冷たかった。
その手を強く握る。
ギャルソンが引く椅子に慣れた素振りで腰掛けるとき、
ナミのやわらかなウェーブの栗色の髪と、深くあいた胸元の、プラチナのクロスが揺れた。

「どうぞ、召し上がって。ここの自慢の手打ちパスタですから。
それともイカ墨のリゾットのほうがよかったかしら」
「いや、すごく美味しいです。ただこの三色を見ていると、
色々考えてしまって」

「色々って?」
「映画のことですよ。
ヴェネツィアをどう撮るのか。シナリオをどう組み立てていくのか。
違う色の糸をどうからませ、あるいはほどくのか、あれこれ考えが浮かんできて……」

「まずはロケハンのお手伝いをご希望なんですよね」

ナミの声には、何故か電話で聞いたきびきびとした勢いがなかった。
さっきは自信に溢れた快活さがあったのに、今その声は沈み、
底には疲れのようなものが感じられる。

「お仕事、予定通りにいかなくて大変ですね」

ジンはそう言ってみたが、ナミはあいまいに微笑むばかりで、
運ばれてきたヴェネツィア風ブイヤベースをつつくのも、
冷えた白ワインのグラスを傾けるのも、どこか上の空だった。

「すみません、仕事の最中に押しかけてしまって。あちらが気になるでしょう?」
「いいえ…… 私こそ申し訳ないわ」 
そのあと、意を決したようにナミは続けた。

「コーディネートは私がするつもりでしたが、
こんな調子でずっと雑誌の撮影が長引いていて。
だから別の人を御紹介します」

「しかし、あなたが一番ヴェネツィアで、その……優秀だと」

ナミがちいさく笑った。
その笑い声がすぐに消えてしまったのが、ジンには残念だった。
もっと聞いていたかった。

そして何の根拠もなく、
駅のインフォメーションでディーの後ろで響いた笑い声は、この声に違いないと思う。

「ヴェネツィアで、一番古株なのは確かですけれど」

気のきいた言葉を返したかった。
だがさきほどの笑い声に囚われて、何も言えない。
ジンはだまってバッグを引き寄せた。
ひそかな期待とともに、あのノートを取り出す。

「とにかく、原作を読んで欲しいんです」

ナミの、水のグラスに向かって伸ばされた手が止まった。

そのとき、「あの、すみません……」 と奥から若い男が現れ、
振り向いた拍子に、その手が水のグラスを倒した。

しかしナミは若者に視線を向けたまま、
水がスーツの膝にこぼれるのも気づかずにいる。

ギャルソンがナプキンを彼女の膝におしあて、テーブルをふき、
水浸しになった料理を下げていくと、ようやくナミは言った。

「ごめんなさい。ついうっかりして。
あちらで何か問題があるみたいで…… ちょっと見てきます」 

ナミは立ち上がると、ジンも、ジンの手の中のノートも見ずに、店の奥に歩み去った。


「約束が違うんです」
「順調だったんじゃないの?」 
部屋の奥から、先ほどの若者とナミの声が聞こえてくる。

「今回の目玉はヴェネツィア名物のモエーケなのに、
市場にいいのがなかったから仕入れていない、だから作れないって言うんです」
「仕方ないわね」 
「そんな…… 困ります。何とかしてくださいよ」

若者の声に何人かの男の声が重なり、それを押さえ込むような野太いイタリア人の声がして、
それらの声の合間を縫って、ナミの声がてきぱきとその場を仕切っていった。
何本か電話をかけている様子も窺える。

ジンはたくさんの声や、彼らが動き回る物音の中から、
ナミの声だけを聞きわけ、聞き入った。
あの声が言うのを聞きたかった。
ウナ・ストーリア・ナスコスタ・ディエトロ・ラ・ネッビアと。


ナミが戻ってきた。

「本当に申し訳ありません。
予定していた料理が作れないとシェフが言いだしたので……」
ナミの声は、奥でイタリア人や撮影スタッフと話していたときより、やはり幾分沈んでいる。

「モエーケ、とか言ってましたね、どんな料理なのかな?」
「ヴェネツィアで獲れる、脱皮したばかりのカニです。
まだ殻が柔らかいのを素揚げするんです」

「で、結局どうなったんですか?」 ジンは興味にかられて訊いてみた。
「モエーケを仕入れているレストランを見つけました」

すぐにでも移動するのだろう、部屋の奥では機材を片付けている気配がする。
「では……」
ジンは、僕もそこに行っていいだろうかと尋ねてみるつもりだった。
だがナミはジンの言葉を封じるように続けた。

「そういうわけでお役に立てそうもないので、私の代役も見つけました。
30分で来れるそうです。
ここはデザートも美味しいから、是非コーヒーと一緒に召し上がっていてください。
彼女はフリーで仕事をしていますが、ヴェネツィアのことはなんでも知っています。
コーディネートには最適の人です。」 

一気にそう言うとナミは、
機材を抱えてレストランのドアを出て行こうとしている男たちに、すぐ行くと目で合図し、
ジンに手を差し出してきた。

「ごめんなさい」
その手を握りかえし、握ったままジンは言った。
「あなたにお願いしたいことは、単なるコーディネートだけではないのです。
僕の話はまだ終っていない。また連絡します」

ナミはそれには答えず、静かな声で別れの言葉を口にしただけだった。

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