色・褪せない ⑥ 覚醒、その後…

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私家版私の好きな女たち/アナイス・ニン(5)

『ヘンリー&ジューン』 アナイス・ニン 杉崎和子/訳 角川書店 1990年
『インセスト』 アナイス・ニン 杉崎 和子/訳 彩流社 2008年

 

◆覚醒

だがこの頃、アナイスは一つの「悲劇」を抱え込んでいた。
妊娠したのだ。

ヒューゴーの子供ではない。ヘンリーが父親だ。
堕ろすよりほかないだろう。恐ろしくいろいろな感情が入り乱れる
–母親になる、完全な女になる誇り、人間創造の素晴らしさ、
母としての無限の可能性。ちっちゃなヘンリーを想像してみる。
それが欲しい、いや、欲しくはない、
ヘンリーへの愛と子供とを秤にかけてみる。
哀しかった、嬉しかった、傷ついた、うろたえている。
人間の命を奪うなんて許されないと思った。

どうしよう、どうすればいいのか。(1934.5.18)

ヒューゴーは反対するが、アナイスは中絶を選ぶ。
だが、堕胎が非合法であったこの時代、中絶薬は効かず、
子供は6ヶ月まで育ってしまう。
8月の終りに入院、女の子を「死産」する。

アナイスは『人工の冬』のラストに、この、死んだ子供を置いた。

とうとう彼女は愛という名の劇場に入り、
劇と劇の仕掛けを見ることができた。
装置は幻想というボール紙でできていた。
舞台の裏にまわってみて、泣くのをやめた。
苦しみは本物ではなかった。
場面を操る糸や、作り物の嵐の稲妻を見た。

彼女は過去の麻酔から醒めた。

嫌う必要もなかった。罰する必要もなかった。
彼女が麻酔から醒めてみたのは、死んで生まれた子供だった。
長いまつげとほっそりとした手のちいさな女の子だった。

子供とともに彼女のなかの少女は死んだ。女は助かった。
そして子供とともに父を求める心もなくなった。(『人工の冬』 1994.6)

アナイスは、子供の頃の「冷たかった」父と、彼の出奔よって与えられたトラウマ、
日記とともに自らが育てた「父」との邂逅、交わりと官能、
そして、「幻想」の終焉を描き切った。
子供の死は、小説では「幻想」からの覚醒をあらわす象徴として扱われているが、
『日記』には、もう少し複雑な感情が見える。

私の中には、父のない子が棲んでいます。
死ぬべきときに死ななかった子供です。
失われた父を求めて泣き叫ぶ小さな女の子の亡霊が棲んでいます。
私の夫が、その女の子の世話をしてきました。
もし、あなたがやって来れば、彼はあなたの父親にもなります。
そうなったら、私の中に棲む少女の亡霊が、
私を片時も放っておかないわ。窓を叩き続けるわ。
夫があなたを優しく抱くたびに、その子は泣くわ。

あなたは芸術家の子供なんです。
その芸術家はね、まだ生まれていない私の子供なの。
彼は父親ではなく、子供なんです。

だから、きっと、あなたを憎むわ。
あなたを憎まなくても、あなたの病気を、あなたの泣き声を憎むわ。
あなたを生んだ女を憎むわ。
彼はあなたを棄てるわ。奥さんと女の子を棄てて逃げ出したように、
あなたからも逃げ出すわ。

この私が、子供でしかない芸術家の父親に棄てられて苦しんだように、
あなたも棄てられて苦しむことになる。
だから、あなたは、生まれずに、このまま死んだほうがいいの。

生きていれば、一生涯あなたは、失われた父親を求めて、
あなたの肉と魂の断片を、あなた自身の断片を求めて、
世界中を彷徨い歩くことになる。
この世に父はいないんです。(1934.8.29)

「この世にいない父の影」と、「小さな女の子の亡霊」は、
このときはまだ、アナイスの心から消えてはいない。
「影」と「亡霊」は、「死産」よりむしろ、『人工の冬』を書くことによって、
死んだ女の子と一緒に葬られたのかもしれない。

この独白のなかには、アナイスの心の真実も見て取れる。
なぜヒューゴーと別れられないかの、もう一つの答えである。
ヒューゴーだけは、アナイスの「子供」であり、
同時に、「父」でもあり続けたのだ。
たとえその姿が、彼女が夢想していた「父」とは異なっていたにしても。

翌日病院を訪れたヘンリーから、
ついに『北回帰線』が出たことを知らされる。
まるでこの作品こそが、自分たちの子供であるかのように、
「素晴らしい誕生だわ」と、アナイスは喜ぶのである。

この「悲劇」を挟みながらも、アナイスとランクの結びつきは強まっていた。
ランクはその後、ニューヨークに活動の場を移すが、
助手という名目で、すぐにアナイスを呼び寄せる。

ランクとのことが終わったら、
ほかの人たちのためにだけ生きようと思う。

精神分析は私を救ってくれた。
真実の私を、 宗教的でさえある私を生み出してくれたからだ。
私は聖女にはなれないだろう。
だが、私は素晴らしく豊かに満たされている。
たくさん書くことがある。
思いをこめて過去を振り返る穏やかな時間を少しの間楽しもう。

この世間にしっかりと生活の根を下ろすことはできそうにない、と思う。
それだけでは不満なのだ。
目眩くほどの高みに上らなければならないのだ。(1934.11.7)

スーツケースいっぱいに、自ら序文を書いた『北回帰線』を詰め、
ランクから届いたばかりの手紙を持って、アナイスは一人でニューヨークに向かう。

『インセスト』はここで終わっている。

 

◆『インセスト』以後

『日記・無削除版』としては、このあとに『火』、『より月に近く』の二冊があるのだが、
まだ日本では訳されていない。
『インセスト』が出てから二年、続きを読める日が待ち遠しい。

さて、この後のアナイスについて、『インセスト』の訳者解説から、
少しだけ紹介しておこう。

ニューヨークには、翌年1月にヘンリーもやってくる。
そして6月には、アナイスはヒューゴーに伴われてパリに戻る。

パリ生活は途中数度のニューヨーク往復をはさみながら、
その後1939年まで続くが、12月、世界大戦の戦火を逃れ、パリを引き払う。
ニューヨークでは、またもや、アナイスの周りをヘンリーや、
その頃のもう一人の恋人、ゴンザロが取り巻いていたというから、
男たちとの多重生活も、そのままニューヨークに引っ越したようだ。
(オットー・ランクは1939年10月に亡くなっている。)

アナイスが愛した男たちの中で、
彼女の人生で、そして私たち読者にとって、もう一人、
どうしても触れておかなければならない重要な男性がいる。

アナイスはその後、ついに「父」を卒業したのか、
「まるで生まれなかった子供を追い求めるように、
若く美しい純粋でロマンチックな青年たちに彼女の愛の対象は絞られていった」。

1947年、40歳を超えたアナイスは、16歳年下のルーパート・ポールと出逢う。
そして、カリフォルニアまで車で向かう彼の誘いに乗って、ドライブ旅行に同行する。
それまで知らなかった、ニューヨーク以外のアメリカを見るためであったと言う。

その後、アナイスはルーパートを追ってカリフォルニアに移り、
森林監督官の職についた彼と、 妻帯者用の宿舎に住むようになる。
ニューヨークのヒューゴーと暮らす高級アパートと、
山の宿舎を数カ月おきに往復する生活が始まった。

ルーパートとは、請われて、二人だけで結婚式もあげるが(1955年)、
重婚を怖れ、けっして別れられない夫がいると打ち明けた。
するとルーパートは、あっさりヒューゴーの存在を受け入れたという。
(この結婚は法的には1966年に無効になった。)
だが、二重生活自体は、出逢ってから三十年続いた。

『「父の娘」たち』(矢川澄子)に、こんな記述を見つけた。

アナイスの最後の伴侶でもあったルーパート・ポールは、
このたびの『火』の序文におよそ次のようなことを記している。

「なれそめの頃、アナイスは私に、
未校閲の日記の原本は読んで欲しくないといい、
私もその意を尊重していた。しかし70年代のはじめになって、
UCLAに日記を委託しようかという話しが持ち上がったとき、
アナイスは言いだしたのである。
–いまこそあなたの読むべきときが来たわ。全部読んでね、と」

ルーパートは五日間、日記のまえに釘付けで、
三万五千ページにわたるノートを読み通したという。

「わたしのこと、嫌いになった?」
「まさか。きみはいさましく己の夢を生き、それを記してきた。
いつの日か、これは公にするべきだね」
「そうよ、それがあなたの仕事。
わたしは自分の書いたとおりの日記を、あなたの手で出版してほしいの」

晩年の二年間を、アナイスは、
ルーパートの義父(フランク・ロイド・ライトの息子)が二人のために建てた、
湖を望む、一日中光の溢れかえる家で、 末期がんの闘病生活を送った。

ルーパートは、「アナイスに献身的に寄り添い、
その介護を一手に引き受け、臨終に立ち会った」
「私を海に戻して欲しいという彼女の遺言を守り、小型飛行機をチャーターし、
遺灰をサンタモニカの海に散らしたのも彼である。
そのために彼が選んだのは、マーメイド・コーヴ(人魚の湾)という、
アナイスの喜びそうな名前で呼ばれている場所であった」

遺産は、ルーパートとヒューゴーが半分づつ受け取った。
ヒューゴーはルーパートとの二重結婚生活を、
アナイスの死まで知らなかったとされる。
ただ、他の男たちとの関係を本当に知らなかったのかと訊かれ、
実は知っていた、知らないふりをしてきたのだ、と述べたというもいう。
彼もまた、アナイスの生き方を受け入れ、
生涯アナイスの伴侶でありつづけたのだと思う。

◆日記と小説と生

アナイス・ニンの『日記・無削除版』の、1931年から34年までと、
その日記から生まれた小説を何冊か読んで、
興味深かったのは、日記と小説、そしてそれらと現実の生の関係である。

たとえば『ジューナ』には、
『日記・無削除版』ではイマイチ曖昧だったジューンが、
くっきりとした姿で描写されている。
アナイスがジューンと一体になることを望み、
それが叶わずに正三角形が崩れる哀しみも、
透明感を持って描かれている。
一人の男を挟んでの女同士のこのような共感や渇望、そして悲哀を、
私はどこでも読んだことがない。

小説は『日記』からエッセンスを絞りだし、
それを熟成させたものだとは言えるけれど、
同時に、小説は『日記』を補完するような役割も担っている。
小説を読んで初めて、ああ、そういうことだったのか、と、
『日記』の記述を納得するのは、通常とは逆の体験だった。

父との近親相姦を描いた『人工の冬』は、
『日記』から余分なものをそぎ落とした、父と娘の幻想と真実を巡る、
深化し、完結した物語となっている。

また、複数の男たちに分断して生きた性愛は、 
『愛の家のスパイ』に結実した。
小説ではこの作品が、私は一番好きだ。

ヒロインのサビーナが、複数の生に自己を分裂せざるを得ないのは、
一人の女の多面性を受け止めてくれる「完璧な男」がいないからだ。
突き上げるものに導かれ、モラルと規範を超えていくときの高揚感と疚しさ。
だが、それはまた、愛する男に、本当は全的な自己を与えたいのに、
ばらばらの、嘘で固めた姿しか差し出せないというパラドックスとなり、
サビーナを孤独の袋小路に追い込んでいく。
だが、彼女の重層的でかつ切実な愛と性は、
緊張と自己統一の試み、混乱をまといながらも、哀切で美しい。

アナイス・ニンは、 自らの欲望に正直に生きる奔放さ、自由さ、
それらを貫いていくときの葛藤や軋轢、罪悪感(と断罪)、
幻想を追い求める愚かしさと勇気、切迫した飢餓感、
などを繊細な綾に織り上げ、これまで他の作家が繰り返し描いてきた、
「多情な女」「恋多き女性」像とは一線を画す、
魅力的なヒロインを描き出した。

作家が体験から物語を生み出すことは、さして珍しいことではない。
「個人的な領域」を深く掘り下げ、外界へ送り出す「動力」は、
いずれの作家にも共通のものだ。
辻邦生はそこに「切断」が必要だと言い添えるが、
アナイスの小説にも見事な「切断」が見て取れる。

だが、アナイス・ニンの特異性は、さらに、
小説とは異なる豊かさを持つ『日記』という作品があり、
小説と『日記』、そしてその元になる現実の生が、
フーガのように重なり合い、鳴り響いているところにある。

書くことと、それを実際に生きることとが同時進行するという
奇妙な一貫性が私にはある。(1932.11.10)

どんな芸術といえども、生そのものにはかなわない。
私が生についてとやかく言うときは、生への私の情熱が、
生の儚さが怖いときだ。(1933.2.25)

彼女は、日記と小説を書くこと、そして現実に生きることを、
等価のものと捉えていた。
アナイスは『アナイス・ニン』という「別世界」、 すなわち、
一冊の長い小説を生きた女性だったと、言えるのではないだろうか。

最後に浮かぶのは、こんな言葉だ。

手紙を書く時も、この日記に向かうときも、
できるだけ自分に正直でありたいとは思う。
でも、一番の大嘘つきは、もしかしたら私なのかもしれない。
ジューンよりも、アルベルチーヌよりもひどい嘘つき。
というのも、私は忠実さをよそおっているから。 (『ヘンリー&ジューン』 )

 

◆付記:エロチカ二部作

実はアナイスには、『アナイス・ニンの日記』以外にもベストセラーがある。

1940年代、ヘンリー・ミラーに、
あるコレクターのためにエロチカを書いてみないか、という話が持ち込まれた。
こうしてアナイスも、ヘンリーや他の作家と競うようにして、
慕ってくる若い芸術家たちを食べさせるために(1ページ1ドルで)、
ときには面白がって、エロチカを書く。

それらを公に出版することをアナイスは拒んでいたが、
晩年になって、編集者の、
「もし出版されれば、女性の立場から女性の言葉によって書かれた
米国最初のポルノグラフィーになる」という説得に、心を動かされた。

ここに集められたエロチカは「詩は切り離せ」という
注文主の至上命令に応えて書かれたものであり、
エンターテイメントである。 そのスタイルもまた、
男の作家たちによって書かれた手本から学び取ったものである。
だから、わたし自身の女性の視点は
多分に妥協を強いられることになったと思う。
長い年月、これらの物語は部屋の隅に眠っていた。

しかし、いま読み返してみると、かならずしも、
わたし自信の声がすべて押しつぶされているわけではないような気がする。
文章にも表現にも本能的にわたしは女の言葉を使い、
女の立場からの観方をしていたと思う。

いつか、わたしの日記のすべてがありのままの姿で公開されるときがくれば、
この女の視点はさらにはっきりと裏づけられるのではないだろうか。
(『ヴィーナスの戯れ』まえがき 1976.9)

これらは、「詩は切り離せ」という命令のもとに書かれたにもかかわらず、
アナイスらしい、詩的で、ファンタジックで、 純粋で率直な、
たおやかな官能に満ちた作品となっている。

アナイスが1940年代に描いた、性の主体としての女性は、
フェミニズムの波をくぐったその後の女性像に負けず劣らず新しい。
いや、私見では、その革新性と根源性両方の意味でのラディカルさにおいて、
残念ながら現代でも、まだ稀有なものに思える。
男性はもちろんだが、 女性の書いたもののなかでも、である。

 

・Delta Of Venus
『ヴィーナスの戯れ』 高見浩・杉崎和子/訳 富士見ロマン文庫(1985.3)

・Little Birds
『ヴィーナスのためいき』 杉崎和子/訳 富士見ロマン文庫(1985.3)
『小鳥たち』 矢川澄子/訳 新潮文庫(2006.2)

 

【参考】

『人工の冬』木村淳子/訳 鳥影社 アナイス・ニンコレクション Ⅲ(1994.6)

『人工の冬』(パリ版)矢口裕子/訳 水声社 (2009.9)

『愛の家のスパイ』西山 けい子/訳 本の友社 (1999.12)

 

 

6 Comments

  1. いつも 面白く読んでいるのだけどね(^^;)
    「体力のある時にコメント書こう」と思っているうちに
    タイミングをなくして次の回がUPされてしまう・・
    を繰り返しておるよ。
    読んでポチはしているのだと とりあえず言って帰ります。

  2. ぼにちゃん、
    読んでくれてありがとう。
    あと、あしあと&ポチもありがとう~~。
    へい、感想はいつでもいいので、いつか聞かせてもらえたら嬉しいですら。

  3. vaiちゃんが「参考」にあげてくれた訳本の出版年月日を見ると、
    割に最近、刊行されたものが多いんだね。
    あの「チャタレイ夫人」だって、完訳が出始めたのは
    それほど昔じゃないし、最近もまた新しい訳が出ているらしい。
    アナイスはロレンスより、さらに「女性」という点と
    実際の生活において、複数の男性と長期に渡って関係を結んでいて、
    さらにその様子を「日記」に書き続けた、という点でも、
    ロレンスよりもさらにアバンギャルドな存在なんだろうな。
    図書館で検索掛けてみたんだけど、近所の図書館には蔵書がないみたい。
    vaiちゃんの参考資料名から引くと、出て来るかな。
    作品を読まずに評論を読むのは、見ていない映画や
    食べてないレストランの評だけ読んでるみたいで、
    もどかしいような、餓えてくるような気分になってきちゃう。
    うん、読んでみたいと思います。

  4. Annaちゃん、
    >vaiちゃんが「参考」にあげてくれた訳本の出版年月日を見ると、
    割に最近、刊行されたものが多いんだね。
    そうなんだよ。
    今年訳されたのもあるくらい(『ミノタウロスの誘惑』 まだ読んでないんだけど)。
    それだけ地道なファン(&出版人)がいるってことで、私は嬉しいです。
    >図書館で検索掛けてみたんだけど、近所の図書館には蔵書がないみたい。
    あら、それは残念。
    私も大半は図書館で読んでるんだけど、一部は手元にあるから、
    それ、まわそうか?

  5. えぇ~~!!
    私、ここに今日コメントいれたんだけど・・・
    なんでないんだろ。
    いや、メモしてたからもう1回貼り付けてっと。
    ーーーーーーーーーー
    うぅ~~ん、簡単に「すごいな」とか言えないし、
    その人の人生の前に絶句しちゃう、そんな感じ。
    自分の中に命が宿った時、それを何と呼べばいいのかどう定義づけたらいいのか、
    そういうことで悩むことって、悲劇のはずなのに、
    しっかり胎動を感じるようになってからその存在を葬ることの痛々しさが、
    あるのかないのか、痛々しさのど真ん中、その結晶みたいなものの中にいるから読む人にも見えないのか、
    ほんとに胸が縮こまる感じがします。
    アナイス、実際に会ったらどんな人だったのだろう。
    最後まで添い遂げたと言える男性もとても興味深い。
    その二人はどういう種類の幸福を持っていたんだろうか。
    うぅ~~ん・・・

  6. しーたちゃん、
    >私、ここに今日コメントいれたんだけど・・・
    なんでないんだろ。
    ときおりあるんだ、これが。
    メモがあってよかった。
    子どものことは、第三者がなんとも言えないなぁ。
    本人の選択で、ずっとそれは抱えていっただろうし。
    アナイスに関しては、その他、全てのこともそうだよね。
    >アナイス、実際に会ったらどんな人だったのだろう。
    杉崎和子さん(訳者)は、60年代に会っていて、その印象も書いてます。
    不思議な魅力に溢れた若々しいひとで、ルーパート氏とは、とても素敵なカップルに見えたとか。
    >最後まで添い遂げたと言える男性もとても興味深い。
    そうなんだよね。
    アナイスが関係を持った男性は、ヘンリー・ミラーもそうだけど、
    アナイスの魅力と真価を見抜く知性と感性を持ち、彼女を尊敬し、助け、
    一緒に生きるのを喜びとする、そんな人だったように思えるな。

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