3-11 クラブ・ジェイン エピローグ -ブッシュ・ド・ノエル

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オステリアはこの夜テーブルが取り払われ、
片隅にわずかに椅子が並べられるだけになる。

「申し訳ございません。
本日はご予約いただいている方だけのパーティーで……」
入り口ではギャルソンがフリーの客を断っている。
ただしクラブのアクターとクライアントであれば、予約は必要ない。

ジェインはぐるりと周りを見回す。
飾りつけは控えめだが、それでも店内はいつもより華やいでいる。
樅の枝に下がるゴールドのオーナメント、先端に輝く星、
女たちの白い喉を滑り落ちる、泡立つ液体。

「……一斉にね、街がクリスマス一色になるんだ。
どのショーウィンドウも競うように…」
「ヨーロッパのクリスマスマーケットはいいけれど、寒いのは…」
「気にならないさ。いや、寒いからいいんだよ、
ウィンドウのきらめきがむしろ……」

からみあいながら漂う会話の断片に、アヤの声が混じっている。
「でも24日になると、街はひっそりとして…… 旅行者には寂しいわ」
「そりゃ君、あっちじゃ宗教行事だから……」

ジェインの視線が、
夏からアヤのクライアントになった精神科医の背中に、
ついで男の話に頷く艶やかな笑みにとどまる。
あのとき医者は苦手だと自信をなくしていたアクターは、
今はどこにもいない。

医者の知り合いの、古くからのクライアントが二人の会話に加わった。
連れている女のドレスが派手過ぎる。
ジェインは目をそらし、もう一度店内に視線を泳がせる。

「やっとつかまえたわ」
気が付くとアヤがすぐ近くにいた。
「あなたこそやっと来てくれた。さすがに人気者だ」
「古株には義理立てする人が多いってこと」

ギャルソンが、グラスを並べたトレーを持って脇に立っている。
「もうシャンパンはたくさん。
パネットーネと、濃い赤をお願い」
アヤが疲れているようなので、奥まったコーナーに置かれた椅子に誘う。

入り口までをさりげなく見渡したあと、ジェインも隣に腰を降ろす。
「みんな挨拶に来た?」
パネットーネをほおばりながら、アヤが言った。
「ほとんどね」
「新人がいないじゃない」
「新人?」

聞き返したが、誰のことを言っているのかはわかっている。
「ええ、あなたのお気に入り」
ズバリと返され、それで肩の力が抜けた。
「お気に入り、か……」

「今夜、どうするの?」
アヤが尋ねた。
クリスマスのパーティーのあとはアヤの部屋で過ごすのが、習慣のようになっていた。
習慣化してはいても、いつも数日前までには連絡していたのに、
今年は今に至るまで触れずにいる。
「どうしようかと……」

大ぶりのグラスのワインを、目を伏せて味わっているアヤの表情は、窺えなかった。

「何年たつ?」
「あなたがクリスマスに私と寝るようになってから?
あれは確かマリエちゃんがいなくなった次の年だから……」
「いや、初めてアヤさんに会ってから」

「そんな昔のこと覚えてやしないわ。
でもあなたは確か、高校生だった」

アヤは多くのことを教えてくれた、優れた教師だった。
もしかしたらあの頃、父の愛人だったのかもしれないが、
そのことには三人の誰も触れないから、真偽のほどはわからない。

「クリスマスイブの夜、今日と違って冷たい雨が降っていた」
「そうだったかしら」

ジェインは16歳だった。
だから何年経ったのかは、指を折って数えるまでもない。
その数日前、父の仕事がレストラン経営だけではないことを、母から知らされた年。

「ああ、思い出した。
あなたのお父さん、変ってたから。
イブと25日と、クリスチャンは休んでいいって。
だからあの夜、にわかクリスチャンになった女の子が何人かいて……」

全てのことが、初めてだった。
夜の繁華街に足を踏み入れたのも、
裸の女から愛撫を受けたのも。
それが女の仕事だということも、初めて知る真実だった。

アヤは行き場のないジェインの怒りを、性欲に変えた。
その攻撃的なエネルギーを、咎めもせずに受け入れた。
父にぶつけようと意気込んでいた、けっして言葉になどできない感情のもつれを、
やわらかにほぐした。

あの場に本当に父はいなかったのか、
殺気立った少年を見て、とっさにアヤが機転をきかせてそう言ったのか、
今となってはどうでもいい。だが、

「あのときアヤさんに会わなければ、今の僕はいない。
クラブを始めることも、なかっただろう」

思い返せば、節目となるときには必ずアヤがいた。
「感謝している」
「おおげさね」

精神科医が、二人に近づいてこようとしていた。
「私もたまには仕事を離れて、ただの、一人の、女になりたいわ」
「すまない。今夜は……」
「来ないと思ってた。だから……」
アヤは精神科医に小さく手を振る。
「彼と、約束しちゃった」

立ち上がったアヤの目元のかげりに、この夜初めてジェインは気づく。
時を重ねた女の、美しい勲章。
張りを失った肉のたわみが、切なく、愛しく、よみがえる。
「アヤさん……」

もし会ったら、彼女に伝えてね。
私からも、メリークリスマスって。

その言葉に送られるように、ジェインはオステリアをあとにした。

ありがとう、
あなたにも、素敵なクリスマスを……。

溢れかえる何かに戸惑うだけだった少年を、大人の男に変えてくれたひと、
その中から剥き出しの欲望の核を取り出すために、
幾重にも物語が必要なのだと、教えてくれた。
けれどもそれはたやすいことではないと、
多くの人は、自分の力だけでは、
物語を疲弊させずにいることが難しいのだということも。

マンションに向かいながら、携帯を取り出す。
自分は何を求めているのか、何を待っているのか、
こんな夜に一人になれば、もう目をそらすことも出来ない。

少し飲みすぎたようだ。
液晶パネルが見知らぬ画像に見える。
ボタンを押し間違えるのを怖れて、ポケットにしまう。

ゆっくりと、木立の間を歩く。
落とされた枝が数本、渦巻く断面を見せて、道の端にころがっている。

ブッシュ・ド・ノエル……

突然、封印を解かれたように、その言葉が浮かんだ。
続いてある女の名前も。
胸のうちでその名をつぶやいてみても、もう痛みは感じない。

帰るなり熱いシャワーを浴びたが、酔いは覚めなかった。
なぜか、ボローニャの大聖堂で遭遇したパイプオルガンの調べが、
頭の中で鳴り響いている。
聖なる、荘厳な、古びた、幾重にも重なりあい、余韻を持って広がる音調。

著名なオルガン奏者の演奏は、ひと気のない聖堂を満たし、
練習のためと言うより、神への捧げものそのものだった。
ロザリオや絵葉書の横に並んでいたCDを買ってきたのに、あまり聴くこともない。
狭い箱から流れてくるものはただの音楽になっていたから。
だが今夜だけは違うかもしれない、
そう思って棚を探していると、電話が鳴った。

「渡したいものがあって……」
声の背後に風の音が聞こえる。
オステリアの前に立つ、冷たい風にコートの裾がめくれ上がる姿を思い、
迎えに行こうかと言ってみる。
「いいえ、少し歩きたいから」

受話器を置き、あの枝を拾ってくればよかったと、ジェインは思う。
暖炉に薪をくべ、部屋を暖かくしておかなければ……。

ここがまるで、森の奥の山小屋ででもあるかのような気がするのだ。
暖炉に燃える炎は明るい光となって窓からこぼれ、
僕の元にやってくる女の、道しるべにもなるだろう。

待つ時間は長かった。
凍える暗い夜に、いったいどこを歩くというのか……。
けれども、絶対、迷うことなく、彼女は来る。
疑いようのない確信に、ジェインの酩酊は覚めるどころか深まっていく。

チャイムが鳴った。
「はい……」

さっきの電話とは違う声音で、インターホンが答えた。
「私よ、マリエ」

まさか……。
考えるより前に、体が動いた。
廊下に飛び出し、エレベータを待つ。

点滅する数字を目で追っていると、
予兆のように転がっていた木の枝が浮かんだ。
そう、あれはまさしくブッシュ・ド・ノエル。

扉が開いた。

「ケーキ、持ってきたの」
ゆるやかなウェーブの明るい色の髪、
華やかな微笑み、
ブッシュ・ド・ノエルの箱をぶらさげた腕が左右に広がり、
はだけたコートの下から、深紅のニットワンピースがのぞく。

ルゥ、君……、

そう言ったつもりだったのに、
口をついて出た名前は違っていた。
「マリエ……」

腕がからみついてきた。
きゃしゃな背中をきつく抱きしめる。

 
ジェインも何故と問わず、ルゥも何ひとつ説明しなかった。
ルゥが自分の元にやってきた。しかもマリエになって。
周到に練られ、決められた筋書きのように、
そのことを不思議とも、ジェインは少しも思わないのだ。

マリエ、
そのワンピースを脱ぐところを、僕にみせてくれ。
身にまとったたくさんの物語を、一枚、一枚、脱いでみせてくれ。
剥き出しの、赤裸の欲望をさらけ出すために。
最後の一枚まで……。

それから、互いの暖炉に薪をくべよう。
清らかで聖なる灰になるまで、それを燃やそう。
僕たちがかつてからめとられ、足をすくわれた物語も、
ついに核を取り出すことのできなかった物語も、一緒に燃やしてしまおう。

そうすれば森の奥に朝陽が射し込む頃には、
物語りはきっと最後の一条の煙となって、
天に昇っていくに違いない。

 
「コーヒー、いれるわ」
「いや僕がやる。君はフレンチトーストだ」

茶色の液体がフィルターを伝ってポットに落ちていく。
片手で、ジェインのシャツを羽織っただけの細い肩を抱き寄せる。
首筋に顔を埋めれば、立ち上るコーヒーの匂いに、燃え尽きた灰のなごり香が混じる。

マリエ、
と呼ぼうとしてやめる。

ルゥ……、
これも違う。

「ほら、コーヒー」
夜じゅう官能に奉仕した白い指が、
膨らんでいた粉がしぼんでしまったのを見咎めて、ポットを差す。

「リョウ……」

ようやく違和感のない名前を探り当てて、
ジェインは満足の笑みを浮かべる。

「君こそ、トーストを焦がすなよ」

くったくなくフライパンに向かう、若い、まだよく知らない女。
それなのに深いところで、互いの核を掴みあった女。

これからもマリエと、ジェインは呼ぶだろう。
あるときはルゥと。
また別の時には違う名を。

きっとどう呼んでも、リョウは応えてくれる。
どんな名であっても、変らずその白い指を、
僕の中心の剥き出しの欲望に向けて、まっすぐに伸ばしてくる。

クリスマスの朝にそう思えるのは、素晴らしかった。

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