3-07 クラブ・ジェイン/マリエ

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多多戸を過ぎ、目立たないホテルの看板を海に向かって左折する。
きれいに刈り込まれたつつじのアプローチの中間あたりに、ゲートがあった。
ジェインがカードを渡すと、門衛がパソコンにナンバーを打ち込む。
すぐに、電動の門が左右に開いた。
ジェインが会員になっているリゾートホテルだった。

吹き抜けのホールは普通のホテルと変わらない。
ロビーの中央には大きな帆船が飾られていて、
ガラスの壁の向こうの海に、浮かんでいるように見える。

三人の部屋は横に並んでいた。
ジェインが左の部屋の鍵をリョウに、右の鍵を母に渡した。
ダブルの部屋はゆったりと落ち着いていて、窓の外にはやはり海が広がっていた。

リョウは部屋の右側の壁にあるドアを、バスルームかと思ってあけた。
そこにはもうひとつのドアが壁のように立ちふさがっている。
二つの部屋はコネクティングルームで、互いに行き来ができるのだ。
だがどちらかがロックしている限り、ドアはやはり壁と同じだ。

テラスに出てみる。
「部屋はどう?」 
近くで声が響いて驚く。右隣のテラスにジェインがいた。
「素敵。こんなに贅沢なお部屋、初めて」

別荘に着くと、兄はいつもまっすぐに海を見下ろすドアに向かい、
テラスに続く雨戸を開けた。それから……。
ジェインが兄と同じように深呼吸をした。
「空気が美味い」 
「ほんと」 
リョウも大きく息を吸い込む。

「でも、波の音が聞こえない」 
「夕方、散歩しよう。あの東屋まで行けば聞こえる」 
ジェインがプールのある広い庭のはずれを指差した。
建物と庭のある高台の左右は崖となって海に落ち込んでいる。
左側だけがエレベーターで降りられるようになっていて、
そこがホテルのプライベートビーチだ。だが岩場と砂浜では、
どこに行っても浜の小石を洗うあの波の音は、聞こえないだろう。

ホテルにはレストランがふたつあった。
東側の浜を見下ろすフレンチレストランで昼食を取る。
それから蓑かけ岩を見に行く。

弓ヶ浜に向かう道を直進せずに右に折れ、しばらく走ると、また海が現れた。
山側の斜面には別荘らしき家が並んでいる。昔はなかったものだ。
下流(したる)を過ぎる。
「ここよ」 母が言った。

だが、別荘に続く私道には新たに門が設けられていて、中に入ることは出来ない。
仕方なくその先のドライブインまで車を走らせる。
予想どうり、あの頃すでに廃屋となっていたドライブインは、
きれいさっぱりとなくなっていた。
代わりに駐車場の片隅のひさしの下に、何台もの自動販売機が並んでいる。

「確かこのあたりから下に降りられたはずよ」
母が自動販売機の後ろを覗こうとすると、ぬっと陽に焼けた老人の顔が現れた。
「ドライブイン、なくなっちゃったのね」 
悪びれもせずに、母が言った。
以前顔をあわせたことのある人だったのかもしれない。

「もう大昔にな」 
「10年前には、まだ建物は残ってたわ」
老人の、潮に洗われた流木のような皺が、深くなった。
どうやら老人は笑ったらしい。

「ここから海岸に降りられるかしら」
「けど、その靴じゃ……」  
見下ろすとかなり急な斜面で、
枯れた丈の高い草やわずかな潅木の間は岩ばかりだ。母は車に戻って、
シートに放り投げられた布袋からスニーカーを取り出した。

母はジェインにしがみつくようにして崖を降りた。
それからも腕を絡ませたまま、ごつごつした岩の間を波打ち際まで進む。
水は冷たい色に澄み渡っていた。波も夏よりは荒い。
蓑かけ岩が、正面にあった。

鋭い剣先を天に向けた岩塊は、見る場所によって二つに割れていたり、
三つの連なりになったりする。
ここからは四つの岩が並んで見える。

一度兄に朝早く起こされて、別のポイントまで行った事があった。
岩の間から朝日が昇るのを見るのだと。
でもその朝日をリョウは覚えていない。兄の背中で眠っていたからだ。

兄は母と日の出を見ながら、リョウを起こしてはくれなかった。
そんなことばかりが思い出される。
今、目の前の二人を、やっと本当の恋人同士になれた母と兄を見ていると。
「大潮のときはね、あそこまで歩いていけるの……」
母の説明にジェインが肯く。

「修験道の行者が、飛行の途中でここに蓑をかけて休んだ」
ジェインは知っていた。あるいは調べてきたのか。
いずれにしろ、不自然なところは少しもない。
兄のふりをしているというわけでもなく、ただリョウと母の間にいる。
その姿に、リョウと母は勝手にユウを見る。

「寒くないか」  
ジェインが右手を伸ばして、リョウを呼んだ。
陽ざしは明るかったが、風が出ていた。
「少し……」
母は変わらずジェインの左腕にしがみついている。
少し迷ったけれど、ジェインの腕のなかに入る。

「こうすれば、暖かいだろ」 
それに、母も見えない。
だが、三人で並んだまま岩場を歩くのは無理だった。
潮に濡れた岩は滑りやすく、ジェインは母の手をとって、
足をふみはずさないように気をつけている。

リョウは二人を後ろに、足元だけを見つめて、岩から岩へと飛び移る。
崖をまわりこむと小石の浜がわずかに広がり、
見上げると別荘があった。

「この入り江、こんなに狭かった?」 
記憶の景色とは何かが違う。
「ちいさなリョウちゃんにはとっても広かったのよ」
別荘の外壁も、真っ白だったのが薄いグレーに塗りなおされている。
「変わっちゃった……」 

10年以上前の風景がそのまま現れてくれるとは思っていなかったが、
別荘の様子には拍子抜けした。
そうだ貝殻は……。小石の間に目を凝らす。
「あった!」 
しゃがみこんで、5ミリほどの貝殻を拾い集める。

生まれたばかりなのに、もうしっかりと巻貝の形をした、
ピンクや茶色の貝殻。小さければ小さいほど価値があるように思えて、
その小ささを兄と競った。
だがその数は昔と比べ物にならないほど少ない。

ほら、と、母とジェインに見せたあと、水にこぶしを入れ、手を開く。
すると引いていく波に、貝はゆらゆらと運ばれてしまった。

母は車に戻ると、
「ホテルに帰りましょう」 と言った。
「黄金崎の夕日は?」
「もういいわ。それにゆっくりお風呂に入りたい。
温泉なんて久しぶりだもの」

「展望風呂からは海が見える。リョウはどうする? プールで泳ぐか」 
「そうしようかな」
浮かび上がる記憶に、寂しい景色ばかりを上書きしても仕方がない。

ホテルには屋内にも温水のプールがあった。
塩分が濃いのか、ふわりと体が浮いた。
泳いだあとは、咲き始めたアロエの花をたどりながら、
庭のはずれの東屋まで散歩する。
波の音はやはり遠く、荒々しかった。

夕食は、西館の和食レストランにした。
ジェインはワインリストを開きもせず、ソムリエを呼んだ。
「おすすめは?」
「イタリアのフランチャコルタで面白いのがありますが」
「どうする?」 
ジェインが聞いてくれたのが、リョウには嬉しかった。

「それ、試してみましょうよ」
ソムリエはオレンジのUVカットのセロファンにくるまれた透明の瓶を、
脇のテーブルに置いた。
「カ・デル・ボスコのキュヴェ・プレスティージュです」
「クリスタルみたい」
「お食事をひきたてるには、かえってこれくらいのほうが……。
ノン・ヴィンテージですが、ブレンドが絶妙で深みもありますし」

フランチャコルタとはイタリア北部のピエモンテ州で、
シャンパーニュタイプのレベルの高いワインを生産している、
斉藤も注目している地域だ。
ワインは、身の引き締まったひらめや鮑のお造りによくあった。
今が旬のイセエビにも。

母が、水揚げされたイセエビを市場で買ったときの話をした。
リョウの記憶にないことだった。
「生きたイセエビの調理なんてしたことないでしょ、
いざ袋から出すと動くの。困っていると、
ユウくんが市場までどうすればいいのか聞きに行ってくれたのよ。
それから赤尾って魚、知ってる? 尾の赤い鯖なんだけど、お刺身が絶品。
ユウくん鯖は苦手だったの。だけどあれだけは別」

母は、それまでリョウが知らなかった兄との日々を、とりとめもなく語る。
兄と暮らした10年と、それを失った10年が、目の前で混ざり合っていく。
「でもね、あの下田でしか見たことも聞いたこともない魚を、
家に持ってかえることはできなかった」
「イセエビは?」
「同じよ。氷詰めにして持ち帰っても、もうここで食べた味じゃなくなってる」

次はブルゴーニュが飲みたいという母に、ジェインはムルソーを選んだ。
揚げ物や炊き合わせにもあう白だった。
最初の一杯を、母はあっという間に飲み干した。
「私、そんなふうに変わってしまうのが怖かった」

ジェインは近づいてきたソムリエを目で追いやり、
母のグラスにムルソーを満たす。
「それに、離したくなかったの。こんなに素敵な息子を」 
「息子のままでいて欲しかった」
ジェインが言った。

「ええ、そうよ。男と女が恋人でいられる時間なんて、
あっという間に過ぎてしまう。でも私、きっと間違っていたのよ。
あなたがいなくなってから、どれほど後悔したが。
何故あなたが望んだように、二人で家を出なかったのか」

「私がいたから」
「違うわ。リョウちゃんはいつまでも私の娘。家を出たとしても変わらない。
でもユウくんは……。
ただ失いたくなかったの、永遠に」

食事が終わり、庭に続くラウンジバーに席を移す。
ムルソーは、レモンリキュールに変わった。
「だけど、10年以上たってみたら、それもなんだかわからなくなってきたの。
あれは本当のことだったのかしら。

それを確かめに、一度ここに来たかった。
私が勝手に夢をみていただけなのかもしれない。
ずっと消えないあなたも、私の妄想が作り上げた、
ただのイメージに過ぎないのかもしれない」

母はジェインの肩に頬を預けるように寄り添っている。
ジェインは母の手をとり、静かに撫でていた。

「ここに戻ってくれば、きっと変わらないものがあると思った。
でも違ったわ。みんな変っていた。海も、岩も、浜も。
あの老人も、どこかで会ったことがある人のように見えた。
なんだか懐かしい人だった。でも思い出せなかったわ」

「蓑かけ岩は? あの岩は、変っていなかったでしょう」
母の哀しみが、リョウの胸にも満ちていた。
母が葬り去ろうとしているものは、
リョウもまた大事に守ってきたものなのだ。
そもそも何故、それを葬る必要があるのか、
これからも胸の奥にしまっておいては、どうしていけないのか……。

「リョウちゃんには同じに見えた?」
駐車場の崖を下っていくとき、リョウは蓑かけ岩を見ないようにしていた。
別荘の下まで行ってからしっかり見ようと。
でも急な斜面を降りきったのに安心して、ふと目を上げると、
岩はむこうからリョウの目に飛び込んできた。

その岩も、別荘の下の小石の浜から見た岩も、
どれも記憶の中の形とは違った。
あちこち動いて眺めた蓑かけ岩は少しずつ姿を変えたが、
記憶の中の蓑かけ岩だけが、
別荘のベランダからいつも眺めていた蓑かけ岩だけが、どこにもなかった。

「仕方ないよ。
あの岩はちょっと見る場所が違うとまったく違う形になっちゃうんだもの」
「結局、私たちがこれこそ蓑かけ岩だと思っていたのは、
蓑かけ岩のほんの一面でしかなかった……」

それまで母の話に黙って耳を傾けていたジェインが、言った。
「だが、蓑かけ岩の全貌を見渡すことなど、誰にも出来ない。
たとえ蓑で空を飛び回ることのできた修験者にも、海から出た岩しか見えない。
それも潮の高さで姿を変える。
海底まで続く岩の姿は、勝手に思い描くしかない」

母は小さなため息をついて立ち上がると、庭に続くガラス扉を開けた。
そのまま外に出ていく。

「ママのとこ、行ってあげて」 
母のショールを差し出す。
それを手にジェインが庭に出てしまうと、
低く流れていたピアノの音がとたんに大きくなった。

庭のはずれの低い植え込みの前で立ち止まり、母は海を見ている。
その背中に向かって、兄が歩いていく。
ショールを広げ、母の肩を覆う。
母が振り向いて、兄の胸に顔を埋める。
兄の手が、ゆっくりと母の背中を抱いた。

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