3-06 クラブ・ジェイン/マリエ

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リョウと母が“クラブ”に入会を済ませると、
ジェインが一度家にやってきた。
ブッフェ・ブルギニョンは最高の出来で、
ジェインはジャン・マルク・ミヨのグラン・エシェゾーを土産に持参し、
母を喜ばせた。

「ユウ、あ、ごめんなさい、違ったわ。
えーとジェインくん、でいいかしら」
「どちらでも」

長い間家を空けていた兄が、こうして帰ってきた。
母は中学生の兄を語り、高校生の兄を語り、大学生の兄を語った。
こんなことがあったの。そうそう、あなたこんなこと言ったりして……。

「覚えている?」
いつしか母の目に、ジェインはユウだった。
確かに、時間を経て少し見知らぬところが多くなったとは言え、
ジェインの中には兄がいた。

「残念ながら」
「そうよ、昔のことだもの。私だって忘れちゃったわ」
「リョウは小さかったから、だろう?」 
ジェインがリョウの名を呼んだ。兄として。

「ユウくん、リョウちゃんにそれ言ったらダメよ。
すぐにムキになって、自分は小さくなんかないって、言い張るんだから」
「ああ、そうだった」 
兄が笑った。
このときから、母は迷いなくジェインをユウと呼んだ。
そう呼ぶだけで嬉しそうだった。

リョウがアルバムを引っ張り出した。
写真は外出したときのものばかりで、だから下田の別荘での写真が多かった。
「リョウ、可愛かったな。この水着、似合ってる」
「ユウにいがプレゼントしてくれたのよ、嬉しかった」

「そうそう、このときユウくんサンドイッチ作ったのよ。
バターにしっかりからしを入れて」
岩の上で笑うリョウの前に、ご馳走が並んでいる。
「いつだったか、からし抜きじゃ美味しくないと私が作り方教えてあげたら、
それから得意料理になっちゃって。
でもサンドイッチが得意って、可笑しくない?」

「可笑しくなんてない」 
反射的にリョウは兄をかばう。
「ほらリョウちゃんたら、わたしがユウくんをからかうと、すぐにこうなのよ」
母の目が、若やいでいた。

懐かしい写真に、リョウも見入る。
これはママが焼いたケーキ、こっちは冷たいトマトのスープ。
ひとつずつ皿を指差すと、口の中にそれらの味がくっきりとよみがえった。

「でもサンドイッチに、からしなんて入ってた?」 
「リョウちゃんのはからしぬきで、別に作ったのよ」
次々と、写真にないシーンも浮かぶ。
「ねえ、わさびのアイスクリーム食べたの、このときだよね」
「ああ、あれ……、リョウちゃんたらあのときもムキになって……」

「何故、ユウにいが緑のアイスクリームを舌ですくってる写真がないの?」
「さあ……」 
母の目が、昔リョウが尋ねたときと同じように、空を泳いだ。

「ママはユウにいが捨てたと言ったわ。
でも何故、一番楽しかったあの夏の写真を捨てるの? 
お父さんが忙しくて下田に来れなかった夏、
ママとユウにいと私、いつも仲良くしてた。たくさん写真を撮ったわ。

ママとユウにいと、並んで砂浜に寝そべってた。
岩の上でも肩を寄せ合って。リョウ、ほらこのボタン押すだけでいいんだ。
ママと僕を撮ってくれ。そう頼まれて、私何度もシャッターを押した」

「そうだったかしら」
母は立ち上がり、冷凍庫の扉をあけて箱を取り出す。
「アイスクリームで思い出したわ。
リョウちゃん好きだったから買っておいたの」

「ママ、私知ってるのよ。兄さんが捨ててなんかいないこと。
捨てるどころか、大事にしまってあった」
慎重に、母はアイスクリームを皿に取り分けた。それをテーブルに運ぶ。

アイスクリームを食べ終わると、母はコーヒーをいれた。
いつもだったら酔いつぶれるまで飲むのに、母はその夜、
そそくさと汚れた食器を片付けた。
リョウは昔のように、ほらもう子供は寝る時間よと、
母にリビングを追い出されるような気さえした。

だが母は、
「ユウくんを部屋に連れていってあげて。その間に洗い物しちゃうから」 
そう言って背中を向けた。

兄の部屋にはほこりひとつなかった。
かび臭いにおいも、あるじの不在をほのめかす、空疎な空気も。
棚に並ぶ本を開けば、ページは茶色に変色しているにしても。
机に乗ったパソコンは今では見ることもない古い形で、
モニターも液晶画面ではないけれど。
脇に積み上げられたCDにも、新しいものはひとつもない。
だが、時はひっそりと息を吹き返し、静かに流れ始めていた。

「写真、見たいな」 
ベッドに腰をおろすなり、ジェインが言った。
「待って……」

何も変わっていなかった。
母は、兄が写真を引き出しにしまっていたのを、いつ気付いたのだろう。
兄の留守に掃除をしたときにか。
いや、掃除のときに引き出しの奥まで覗くことはない。
きっと母は兄が死んでから、兄の生きていた痕跡を探していて、
この写真をみつけたのだろう。

「楽しそうだ」
「ええ……」
本当に楽しそうな母と兄がいた。
だがリョウには、そんな二人の姿の裏側に、
楽しかっけれども同時に切なかった、幼い自分が張り付いて見える。

兄がなぜ隠したのか、見つけたときにはぼんやりとしかわからなかったが、
今ははっきりとわかる。
二人は写真の中で、恋人同士だった。
「お父さんの目に入れるわけには、いかなかったのね。
でも兄さんは写真を捨てられなかった」

写真を持って階下に降りると、母はソファーに座って、
薬草の香りの苦い食後酒を飲んでいた。

その一週間後の朝。
母はリビングでテレビの天気予報に見入っている。
すっかり支度はできていた。

「やっぱりママだけで行って」
あとはジェインが迎えに来るのを待つばかりなのに、
リョウはまた昨夜からのやりとりを蒸し返した。
「だめよ。そしたら二人だけになっちゃうわ」

「いいじゃない、二人だけのほうが」
「違うって言ったでしょ。三人じゃないとだめだって。
私とユウくんとリョウちゃん、三人いるのが完璧な幸福だった。
だから一緒に行ってくれないと」

母はその後ジェインに、三人での“デート”のセッティングを頼んだ。
しかも下田に一泊のドライブ旅行という大胆なものを。
別荘は兄が死んでから手放してしまっていた。
だからホテルに泊まるしかない。
それでもいい、一度あそこに戻ってみたいのだ。

母の言い分を一旦は承諾したリョウだが、
いざとなってみると、臆す気持ちが強かった。
「ママは兄さんが好きだった。兄さんもママが好きだった。
二人は本当は赤の他人なんだし、お父さんはもう私たちのこと放棄してる。
だから何の問題もないじゃない。二人で旅行、楽しんでおいでよ」

本当の気持ちは、違った。
母は下田でジェインを求めるだろう。
あの夜の浜辺でのように、ジェインは母に応えるだろう。
あの夜、リョウはそれを窓から眺めて、わけのわからない衝撃を覚えた。
目を離すことが出来なかった。

それでも幼い少女は、
朝になったらその衝撃を忘れてしまうことができた。
夢のような、映画のワンシーンのような、
きれいな母と兄の姿だけを、記憶にとどめて。
だけど今は……。

「どうせ、兄さんとママは仲良くするでしょ。
それを見せ付けられるのがいやなの」
思い切って言った。

「するわよ。それがねらいだもん」
「だったら私はじゃまでしょ」
「違うの、見せ付けて、
それでリョウちゃんにユウくんをあきらめらさせるのがねらい」
「ママ……」 

ふふと、母が笑った。
「リョウちゃん、私とユウくんの気持ち、ずっと知ってたでしょう」 
「うん」
「いつぐらいから?」
「わからない。でもたぶん、あの夏から。兄さんが写真を隠した夏」

「ママも知ってたの、リョウちゃんがユウくんを大好きだってこと。
こんなに小さな頃から、ううん、生まれたときからだわ。
うらやましかった。じゃれあったり、一緒に寝たり、
なんだってあなたたちは出来た。でも私は……」

「ママと兄さんだって」 あのとき、キスしてたじゃない。
ユウにいはくすぐったがる私にも、
まるで嘗め回すみたいにキスしてくれたけど、
でもあんなのは、してくれたことなかった。
だが母に、そこまでのことは言えない。
「仲がよくて、私すごくうらやましかった。
早く大人になって、ママみたいに兄さんと話ができるようになりたかった」

「それでずっとあきらめられず、
あなたユウくんに似た年上の男の人ばかり追いかけて、
でもちっとも長続きしない。
いいかげんにリョウちゃんもあきらめて、ユウくんの影じゃなくて、
ちゃんとジェインさんを追いかけて、今度はしっかりとつかまえなさい」

えっ、と母を見る。やはり母は笑っている。
「あなたが何故“クラブ”で働き始めたかも、ママ、わかったの。
ジェインさんを見て、すぐに」
何も言い返せずにいると、玄関のチャイムが鳴った。

 

ジャガーの助手席には、母が座った。東名を沼津で降りる。
一号線から136号に入ると、車は少し流れ始めたが、
それでも伊豆中央道の交差点まで、かなり渋滞した。
「あの頃は、こんなじゃなかったわ」
「週末は仕方ないさ」 
ハンドルを握るジェインが答える。

同じルートをたどっているはずなのに、
道路の両側の景色には見覚えがない。
あれからこの道を通ることもなかったし、
幼い記憶はもともとあやふやだったのだろう。

「ママ、あのときもこんな道路、走ったっけ?」
「さあ……。なんだか初めて通るところみたい。
この車が乗り心地がよすぎるせいかしら」

修善寺道路を抜け、414に出ると、ようやく山の姿に懐かしさが湧いた。
けれども、建て替えられたばかりのようなドライブインが現れたり、
以前立ち寄った蕎麦屋がなくなっていたりで、
懐かしさと寂しさは交互に襲ってきた。

山の木々はすっかり秋の色で、
窓から吹き込む風にも、新緑の青臭い匂いはない。冷たさに窓を閉める。
するとまぶしく反射していた光が、ガラスのフィルター越しに澄み渡り、
うるしやかえでの葉の紅が一層鮮やかさを増した。
記憶にないその色合いが新鮮だった。

河津七滝のループ橋を下る。
湯が野を過ぎ、峰温泉を抜けると、海に出た。
背の高いやしの木は相変わらず道路わきに並んでいたが、
妙にすかすかとしていて、濃すぎるほどの藍の海には似合わなかった。

「下田でスーパーに寄る?」
ジェインが聞いた。さんざんリョウと母が話したので、
来るたびにショッピングセンターに立ち寄っていたことを、
ジェインも知っていた。

「ホテルまで遠いの?」 
母が聞いた。
「いや、街を抜ければすぐだ。あと、15分くらい」
「じゃいいわ。だってお料理するわけでもないし、
行ったって買うもの何もないもの。リョウちゃんは?」
「私もいらない」

もうリョウにもわかっていた。時間は確実に流れてしまった。
10年以上前と同じものなどどこにもない。
記憶の中の兄だけがずっとあのときのままだったが、
長い空白をまとって現れた兄は、目の前で刻々とその空白を埋め、
姿を変えていく。

「でも、下流(したる)の先の蓑かけ岩だけは見たいわ。
ホテルでお昼を食べたら、連れて行ってちょうだい」 
通りに並ぶ土産物屋を目で追いながら、母が言った。

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