3-05 クラブ・ジェイン/マリエ

jein_title.jpg

 

翌日はいつものように大学に行った。
受けるつもりのなかった授業まで受けた。
マンションには戻らず、そのままバーに向かう。
仕事用の着替えは持って出たのに、ジャケットを忘れた。
夕方の風は冷たくて、少し肩をすぼめて歩いた。

“バー”のドアに鍵を差し込もうとして、
すでにロックがはずされていることに気付く。
リョウは大きく息を吸い込みドアを押した。

「どうしたの? それにママまで……」
「わかってるだろう」 斉藤の声が固い。
「掃除は?」
「私が済ませたわ」
「看板は?」
「出さなくていい」

壁際のテーブルの母の隣に座る。
斉藤がカウンターの中から出てきて、向かい合わせに腰をおろした。
みずきに言われたように、断固として否定する、
何度も繰り返した決意をもう一度新たにする。
だが、もし本当のことを知られてしまったら……。

そのときはそのとき。覚悟は決めたはずだった。だが、
「クラブ・ジェインで働いているのか?」
いきなり斉藤の口からその名が出て驚き、
それで決意も覚悟も、こなごなに砕けてしまった。

「……」
「りょうちゃん、私たち、心配で……。
斉藤君がね、調べてくれたの。
ゆうべ、みずきちゃんが勤めてるところに行って」

「ウラでやってる秘密の売春クラブをのこと、知ってると匂わせた。
そしたらすぐに彼女の移籍先、教えてくれたよ。
クラブ・ジェインが、一応条例にのっとって届出を出してる合法的なデートクラブだということは、
今日わかった」

全身の力が抜けた。
ああ言おうか、それともこう言おうか、いろいろ考えていたのに、
それらの言葉がひとつも浮かばない。

「学校が忙しくなった? 恋人ができたって? 
嘘までついて、何のために」
「恋人ができたなんて言ってない。あれは斉藤さんが勝手に……」
「金のためか」
「違うわ」

「りょうちゃん、とにかく説明してちょうだい」
「だから、心配させたくなかった。
別に私、心配するようなことなんか何もしていない。
でも、きっと心配すると思ったから」

「そんなこと聞いてるんじゃない。
何故デートクラブに登録したかだ」
大きなため息が洩れた。
「なぜかと言うと」
やってみようと決心がついた夜のことを、思い出した。

「スカウトされて、でも断るつもりだったの。
だけどあの夜、ママがふられた若い客が”バー“に来て」
母には言うまいと思っていた夜のことだ。
「おい、それは……」 
斉藤の表情が強張った。

「ちょっと待って、若い客って、孝のこと? 
孝があのあと、バーに来たの?」
斉藤は重い口ぶりで、その夜のことを話した。
母が贈った物を男が返しに来たこと、それをリョウがゴミ箱に捨てたこと、
二度と来るなと追い返したこと。

「すみません、黙っていて」
母は苦笑いを浮かべた。
「いいわ、もう彼のことなんか。
どうせそんな酷いことする、ナイーヴで鈍い男だった」

「そのことが、デートクラブと何の関係があるんだ」
「覚えてる? 斉藤さんあの男が帰ったあと、こう言ったの。
ママの相手はプロじゃなきゃダメだなって。
でも、今までホストはただママを振り回すだけで、
ちっとも満足なんかさせてくれないように見えた。

だから知りたかったの。
ママはまだ本当のプロに会っていないだけなのか、
そんなプロがいるのか、
それともどんなプロが相手でもママは永遠にあきらめられないのか」

「私が何を、あきらめられないって言うの……」 
母の声が、低くなっている。
斉藤は椅子を後ろに引き、腕を組んだ。
「兄さんのことよ、決まってるでしょう!」

思ってもいなかった強い口調に、誰より驚いたのはリョウだった。
私は何を言おうとしているのか。
だが吐き出してしまった言葉を、消すことはできない。

「ユウのこともママのことも、関係ないだろう。屁理屈だよ。
わかるように説明してくれ、
何故そんなところで知らない男を相手にしようなんて」

「そんなところ?」
「そうだ、そんなところ、だ」
「どんなところですか。教えてください。
結婚紹介所とデートクラブは、どこが違うかも」

「それは……」
斉藤が言いよどんだ。母が、視線を伏せたまま言った。
「ワイン、開けて。おねがいよ斉藤君。
こんな話、しらふじゃ出来ないわ」

奥のセラーから斉藤がブルゴーニュの瓶を取り出し、栓を抜いた。
母がグラスを取りに立った。
そのとき、レジの横の電話が鳴り、斉藤が受話器を取った。

「ええ、いますよ。あなたはどこに? バーの前? 
どうぞ、鍵はかかっていない。入ってください」
ドアが開いた。
受話器を置いた斉藤が、顔を上げ、息を飲んだのがわかった。
「ユウ……」

その言葉に、母が振り向く。
手にしたワイングラスが床に滑り落ちて、グラスの破片が飛び散った。
「ユウくん……」

あとからこのときのことを思い出してみても、
どうしてもリョウにはわからなかった。
何故斉藤が、通りの明るい光に照らされたシルエットだけのジェインを、
ユウと思ったのか。何故母にも、彼がユウに見えたのか。
リョウの記憶の中のユウにも、残っている写真のユウにも、
ジェインはすこしも似ていないのだ。

だがジェインは、リョウが今隣に居て欲しいと願った男であると同時に、
確かに、母がいつか目の前に現れるだろうと待ちわびていた、男だった。

「イ・ジェインです」
「あ、ああ…… 斉藤、です」
「僕はそんなにお二人を驚かせましたか」
「いや、ただちょっと……」

母はまだ、ジェインを凝視している。
「ママ、ジェインさんよ」 
ユウにいじゃない。

斉藤が、「すみません、今片付けますからそちらに」 
というと、母も我にかえった。しゃがみこんで、ガラスの破片を拾い始める。
「手伝いましょう」
ジェインが足をおり、長い指を延ばした。

だが母はそれを無視して、無造作にガラスをつまんでいる。
「危ない、気をつけて」
母の手を、ジェインがとった。視線を合わせ、微笑む。
「ええ……」 
夢の中で兄のオートバイの後ろにまたがったときと同じ表情を、母は浮かべた。

テーブルにグラスが四つ並べられた。
「乾杯!」 母が言った。
斉藤は、戸惑っていた。
「乾杯」
斉藤を無視して、リョウも言う。
「何に?」 
斉藤が聞いた。リョウは挑戦的に答える。
「クラブ・ジェインに」 

「いや、バー・ニュイに、乾杯しましょう。そしてジャン・マルク・ミヨに」
ワインは、“バー”がグラスで出しているブルゴーニュ・ルージュだった。
斉藤のお気に入りの作り手は、香りの魔術師と呼ばれている。
「乾杯……」 
しぶしぶと、斉藤もグラスを掲げた。

「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
グラスを置き、ジェインが謝った。リョウは釈然としなかった。
「待って。ジェインさんが謝る必要なんてない。
私はもう二十歳です。自分で決めて」

斉藤が割って入った。
「謝るようなことをしている、いやさせている、そういうことですか」
「それは違う。ただ僕には、お二人が心配する気持ちはよくわかる。
心配させたことに対して、申し訳ないと思っています」

「責任がある、ということは自覚しているわけだ」
「責任は、あります。スカウトしたわけですから。
でなければリョウ君は、この世界に足を踏み入れることなどなかった」
「だけど私、断ることだって出来た。本当に最初は断るつもりだった」

「リョウちゃん、そのことはもういいわ。
ジェインさん、あなたの“クラブ”でこの子が何をしているのか、
正直におっしゃって。何を聞かされても、もう驚きません」

「僕は“妹”を求めている男性や女性に、彼女を紹介する。
それだけです。お二人が心配しているようなことは、彼女は何もしていません。
たとえばある男性とは泳ぎに行ったり、食事をしたりするだけです。
この前紹介した女性クライアントとは……」
斉藤は疑わしげに眉をしかめたが、母は興味深げだった。

「男性と女性の立場はどう違うのかしら。
確か普通のデートクラブの場合、男性は入会金や年会費を払うけれど、
女性はただ登録するだけだったと」
「うちの場合、何も違いはありません。
求めるクライアントとそれに応えるアクターがいるだけです」

斉藤が、相変わらず固い口調で話を引き戻した。
「心配するなと言われても、そう簡単に信じるわけにはいかない。
現に夕べみずきちゃんは男に、早くホテルに行こうと言った。
つまりそういうことも求められるわけですね」

「そうです。彼女は、そういうことにも応える。
ただそれは彼女の選択、彼女の意思です。
そのことを誰もとやかく言うことはできない」

「詭弁だ!」 
斉藤が吐き捨てるように言った。
「入会する男は、女とやりたいから金を払うわけだろう。
女だってそれをわかっていて登録する。
デートクラブなんて、女衒と同じだ」

直截的な言葉が、リョウの心をえぐった。
だがジェインはすこしもたじろがず、グラスからひとくち、ワインを飲んだ。

「昔、学生時代に、恋人を欲しがっている親友に女の子を紹介したことがあった。
実はそのことが、今の仕事の下敷きになっている。
でも斉藤さん、あなただって、女の子を紹介したり、されたり、
そんなことはたくさんあったでしょう。
あるいは合コンとか、しませんでしたか」

「あんたの商売が、そんな善意に溢れたものだとは思えんね」
「違うと、おっしゃるのですか」
「違うに決まっている。問題は、金、だろう」
「金? 随分プリミティブだな」 
初めてジェインの声に、苛立ちが滲んだ。

「僕は風俗産業の側にいる人間だ。
だからと言って、この仕事の全てを擁護するつもりはない。
だが斉藤さんだって、まさか風俗の仕事は卑やしい仕事で、
酒を売るのは聖なる仕事だ、などとお考えのわけではないでしょう」

斉藤が膝の上で拳を固く握り締めた。
その緊張が、逆にジェインの苛立ちを鎮めたようだ。
続けて語る声には穏やかさが戻っていた。

「あなたはいい方だ。おそらくあなたは、
女や性が商品化されるのに、加担することなどないに違いない」
母が静かにボトルを取りあげ、四つのグラスにワインを注いだ。
「ジェインさん、ではあなたが擁護しているものは、何なのかしら」

リョウはグラスが次々に満たされていくのを、ぼんやりと眺めた。
斉藤は視線をそらすことなく、ジェインを睨みつけている。
ジェインだけが、手を伸ばした。

グラスを回し、目の前に持ち上げ、傾け、
ワインの涙がグラスの内壁をすべり落ちるのを観察する。
それから揺れる液体の匂いを嗅ぎ、テイスティングの要領で少量を口に含む。
少し唇をあけて空気と混ぜ合わせたワインの香りを、のどから鼻に通す。
言葉を選びながら、無意識に、体が動いているようだ。

それからおもむろに、答えた。
「男と女の間にある、決して飼いならすことのできない欲望、でしょうか。
更に言えば、そんな欲望を生み出す幻想。
現実には適わないと知っていても、なお求めずにいられない切ない望み。
たとえ一夜の夢だとしても、それで深く満たされる渇き」

「それは実際の関係の中で、満たすべきだろう。
その場限りの見知らぬ、しかも金を介在させた相手では、
真に満たされることなどありはしない」

即座に返した斉藤の言葉に、ジェインは、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。
「そう信じられる人は、それでいい。
しかし僕に言わせれば、それもまた別の種類の幻想だ。
人間の関係は、幾重にも幻想を纏っている。
人間とは目の前の肉体にすら、頭で作り上げたイメージを重ねる生き物だ。

幻想という言葉が気に入らなければ、物語と言ってもいい。
だが掴んだはずの物語は、現実ではたやすく疲弊していく。
あるいはいつかそれが幻だったことに気付き、新たな物語を求め始める。
人間は、物語がなければ生きていけない」

「しかし……」
何かいいかけた斉藤を、母が止めた。
「斉藤君が言いたいことは、よくわかる。
でもね、みずきちゃんの仕事を知ってて、私たち彼女には何も感じなかった。
何も言わなかった。面白がってすらいたわ。
なのに同じことをこのコがしてると思って、とてもうろたえた。
これって何なのかしら。

それから私のこと。
あなた私が若い男を買うのを何も言わず、すこしも責めず、
黙って見ててくれた。それは何故?」

ママの苦しみが、少しでも癒えるなら……。
斉藤は口を開かなかったが、胸のうちのつぶやきは、
おそらく母にも聞こえただろう。
母は斉藤の膝の上の拳に、そっと自分の手を重ねた。

母は、ジェインの言ったことには触れずに、リョウに訊いた。
「あなた、ずっとこの仕事するつもり?」
「ううん、大学を卒業するまで」
「そのあとは?」

「兄さんみたいに、斉藤さんのところでソムリエの資格を取りたい」
「わかったわ。
ジェインさん、それまでリョウのこと、お願いできるかしら」
「ママ!」 
斉藤が驚きの声をあげた。

「もうひとつ、ジェインさんにお願いがあるの」
「うかがいます」 
「私と娘を、クライアントとして入会させていただける?」
「もちろんです。何の問題もありません」

「でもね、条件があって。
あなたをアクターとして指名できるなら……。
受けてくれるかしら。
あなたは私の義理の息子で、この娘の実の兄なの」
ジェインは微笑み、そして答えた。
「いいでしょう」  

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*