3-04 クラブ・ジェイン/マリエ

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クライアントとの“デート”は、
終わったあとで必ずジェインに報告しなければならない。
今まで唯一その義務を怠ったのは、シライと飲みに行った夜のことだけだ。

今日の吉田とのやりとりは“デート”ではないが、
やはり報告しておくべきだろう。電話で簡単にすませる気になれず、
久しぶりに“オステリア”に出かけていく。

珍しいことに、ジェインはカウンターの片隅で、一人でワインを飲んでいた。
1995年のルーチェ、希少なビンテージのスーパートスカーナだ。
隣に座ると、すぐにグラスが用意された。

ルーチェは芳醇で、長い時間が凝縮されたような味わいのワインだった。
そう感想を述べると、ジェインは、とても好きなワインなのだと言った。
「ずっとこのビンテージを飲み続けてきた。
最初は若いだけのとがったワインだったが、それがようやく飲み頃を迎えた」

澄んだガーネットの液体から、ふくよかで柔らかな香りが、
グラスを回すまでもなく立ち上がる。
しかも優しい華やかさの底に、きりりと光る手ごたえがある。
まだまだピークを維持しそうなワインだった。

輸入業者を確かめようとボトルを手に取る。
だがボトルにはイタリア語のラベルが張られているだけで、
インポーターの名を記したものはなかった。

「トスカーナからの直送だ。
僕が毎年これを飲んでることを知ってるやつが、ルーチェの畑の近くに行ったらしい」
「モンタルチーノ」
ああ……、とこぼれた声の深さに、リョウはジェインの心が、
その地に飛んでいることに気付く。

「どんなところなんですか?」
「丘の上の、古い街だ。入り口に城塞があって、
石で高く組まれた砦に登ると、平原の向こうに小麦やブドウの畑が見える」
ジェインが口にした言葉が情景を呼び寄せた。
「風は?」
「風?」

「ええ、風が昇ってくるような気がして。
乾いた草の匂いを運んでくる……」
ジェインが、遠くから戻ったような目でリョウを見た。
「風と、匂い、か……」

このワインを送ってきたのは、
きっとジェインのことをとてもよく知っている人なのだろう。
ジェインは嬉しそうで、そして哀しそうだ。
その人のことを想っているからだ。

その無防備な横顔に、切ないような、泣きたいような気持ちに襲われ、
リョウは唐突に、言わなくてもいい、
言うつもりもなかった言葉を口にしていた。
「さっきまで、モモと一緒でした」
モモの名前が出たからか、ジェインの瞳に芯が戻った。

「最近教授にあまりかまってもらえないと、ぼやいていただろう」
「今日はそんなこと、ひと言も」
「そうか、少し距離をとるほうがいいと、モモにもわかってきたか。
これだけ長く密につきあっていればマンネリにもなる。
教授がモモを“クラブ”に連れてきたのは、
なるべくそれを先に延ばしたいというのもあった」

モモに長続きさせるコツを尋ねたとき、寝なければいいと答えたのは、
あれは自分たちの、互いの肉体に慣れて終息していく欲望を、
悼んでの言葉だったのかもしれない。

続けて吉田のことを話すと、ジェインは目を細めて、
「これでルゥも一人前のアクターだな」と言った。
「そうでしょうか。でもナンバーワンはやっぱりみずきさんだし」
「君は“クラブ”のナンバーワンにはなれないだろう」
「ええ、どんなに頑張っても、みずきさんにはかないそうもない」

「そういうことじゃない。
ルゥとみずきはまったく違うところにいるから、
そもそも競争にはならない」
まだわからないのか、ジェインの目がそう言っている。

「本当は、みずきさんと競争しようなんて気は全然。
ただ、一度はつかまえたと思ったけれど、やっぱり自信が持てなくて」 
「それはそうだろう。手本なんてどこにもないんだから」
いや、手本となる人は目の前にいる。
火をつけ、煽り、燃料を足し、その火を消さないように空気を送り続ける人。

「物語を与えればいい。
あるいは、クライアントと一緒に物語をつくるんだ。
果てのない幻想にこそ、人は永遠に欲情し続ける」

グラスの脚に添えられたジェインの長い指が、
テーブルの上でグラスを丸く滑らせた。
揺れる液体から立ち上がる香りを、深く、ゆっくりと吸い込む。
その香りと共に再びジェインの心が浮遊していく。

自分の乾きにばかり囚われていた私が、
ようやく他の人の乾きを少しだけ潤してあげることができるようになった。
だからこの人の渇きも、今夜は見えるのだろうか。
あるいはそれは、このワインのせいなのだろうか。

「一度でも寝てしまうと、関係は終わりに向かって歩き始める」
リョウがちいさくつぶやくと、ジェインがほうと、リョウを見た。
あわてて、
「確かモモだったか、そんなふうなことを」
と付け加える。

「乾杯するのを忘れていた。……素敵なアクターにルゥに」
照れながらグラスを持ち上げたリョウの指に、ジェインの視線がからみつく。
だがその視線を正面から捉えることが、リョウにはできない。まだ。

目を閉じて、時の積み重なりのような液体を口に含めば、
闇が覆い始めた森に残る、柔らかに広がる光の環が浮かぶ。
その光に呼応して木立の奥で静かに燃える炎も。
私はまだこんな炎になれない。
いや、その前に、まずひとつの、身を焦がす炎にならなければならない……。

シライとの定期的に会う日々が戻ってきた。
泳いだり食事をしたり。
話題のひとつにマリエのことが加わっただけで、それ以外は何も変わっていない。
一度だけ“デート”のあと、どうしてもとせがんで、
シライのマンションに連れて行ってもらった。

マリエの部屋、マリエの残していった服、マリエが読んだ本……、
人の生の気配はすでに希薄なのに、残されたモノたちのひそやかな存在が、
あるじの不在を一層生々しく際立たせている。
「そろそろ片付けなきゃな……」

部屋にはかび臭い匂いがこもっていた。
シライが、何か飲むかと、リョウをその場に置き去りにしてくれたので、
窓を開け、風を通す。重苦しさが少し薄れ、そっと息を吸いこむと、
マリエの使っていた化粧品の匂いだろうか、流れていく空気の底に、
かすかに、女の気配のようなものが立った。

リビングでビールを飲みながら、マリエの写真を見せてもらう。
まだ少年の面影を漂わせたジェインとシライにはさまれて、
豊かな表情の少女が写っていた。
肩までの柔らかそうな髪、けっして整っているわけではない、
どこかバランスを欠いたようなその顔立ちに、引き込まれる。

マリエの表情には、歳を重ねるごとに華やかさが加わっていった。
だが同時に、学生時代には自信に溢れていた表情に、
次第に陰りのようなものが現れ始める。
ある写真ではそれは彼女の魅力に奥行きを与えていたが、
別の写真では迷子になった子供が途方にくれているようで、痛ましさすら覚えた。

「これが最後だ」
シライが舞台の上のマリエを差し出した。
あのときはろくに見なかった写真だ。
マリエは、それまでとは別人のようだった。

日本ではいつも明るい色の、肌を露出させた女っぽい服を着ていたのに、
舞台の上では黒いパンツに真っ白なシャツを首元まできっちりと止めている。
髪はあごのあたりで切りそろえられ、どちらかと言うと中性的だ。

その写真が一番ドラマを語っていた。
演じている最中だから、というのではない。
モノトーンの禁欲的な装いの後ろに隠された何かを、
その肉体が全身で表現している。それはけっして主役のものではない。
だが脇で物語りに厚みを与える、確かな存在感を秘めていた。
それまでのマリエが、主役なのにどこか空疎なものを抱えていたのとは対照的に。

「この写真、好きだわ」
「驚いたよ。随分変わってて」
ジェインもシライも知らないマリエが、きっといたのだ。
それを、二人がいないところでようやく、マリエはみつけたのかもしれない。

吉田は次に会ったとき、ラベンダーの種とポプリをお土産にくれた。
やはり以前の、寡黙な男にもどっていた。
沈黙に、ときおりかすかな欲望が見え隠れした。
それが切なく、愛しかった。

そんな日々が続き、秋の気配が深まった頃、新たにジェインは、
みずきと同じ年頃のOLとの“デート”をセッティングした。
考えたこともなかった相手にとまどい、
必死に彼女との物語を紡ぐことに忙殺され、リョウはそれまでの、
一度か二度で終わってしまったクライアントのことは忘れた。

バーの仕事も順調だった。
母はよほどこの前のことで懲りたのか、
その後若い男のあとを追い回すこともなく、
バーでリョウと顔をあわせる時間も多くなっていた。
だが平穏な日々は、ある夜一変した。

もう9時か……、客が途切れてリョウが壁の時計に目をやったとき、
久しぶりにみずきが“バー”に現れた。後ろに連れの男がいた。
その男が、あれーと、酔った声をはりあげた。
「ルゥじゃないか」

みずきが、ぎょっとした表情を浮かべた。
リョウには一瞬、何が起きたのかがわからなかった。
ルゥって誰だっけ……。
それが自分のことだとわかったときには、
男はリョウの前のスツールに腰を降ろしていた。

「驚いたな。ルゥがこんなところにいるなんて。
あ、あのあと指名しなくてごめん。
ついみずきちゃんの色香に惑わされて」
「すみません、何のことか」 
とっさにリョウは、しらを切ることに決める。

「君“クラブ”んとこのルゥだろう。
たった一回だったけど、忘れたなんてひどいな」
「ちょっと上野さん、このコはね、違うの。
ルゥじゃなくてリョウちゃん。やだな酔っ払いは。
ところで上野さん、私だけって言いながら、他の女と浮気してたのね。
許せないわ!」

「いや、そうじゃなくて、君の前にちょっと……」
みずきのフォローはなかなかのものだった。
じっと見つめる斉藤の視線にも、気付かない振りでよく耐えた。
いつものようにビールを頼む。
だがグラスを満たすリョウに、ごめんと目で合図したのが余計だった。

「ルゥってコに、うちのがそんなに似てるんですか」
斉藤が上野に向かって聞いた。
「もうそっくりですよ。まさか双子の妹とか」
「そのルゥはみずきちゃんと同じところにいる……。
つまり、その、例のデリヘルに?」

ここまできてようやく上野は、
“クラブ”が秘密の存在だったことを思い出したようだった。
「いや、まあ、なんと言うか……」
「確か秘密クラブでしたよね」
「なんだ、ご存知でしたか」

がたんと音をさせて、みずきがビールのグラスを倒した。
わざとらしかったが、他にどうしようもなかったのだ。
きゃあーと悲鳴をあげるのに、上野もあわてておしぼりを広げる。

「もう上野さんのせいだからね、どうしてくれるのよ」
「えっ!? 僕が倒したの?」
「だから相当酔ってるって。しょうがないな。そろそろホテルに行こうよ」
みずきが男を促して席をたった。
「ごめんなさい、お騒がせして」

「いいよ、今度たっぷり高い酒飲んでもらうから」
斉藤はそうみずきと男を送り出したが、
ドアが閉まると鋭い視線をリョウに向けた。
斉藤に目を合わせずに、それでもリョウは言う。
「ああ、びっくりした。何だったんだろう」
「さあな」
カウンターの奥に座っていた母が、リョウと斉藤を交互に見て、
大きなため息をついた。

それから1時間余り、数人の客が訪れた。
幸いよく知った人たちばかりだった。
リョウはワインの栓を何本か開け、
いつもと同じように話をした、つもりだった。

だが10時になってバーをあとにすると、
数歩も歩かないうちに、へなへなとその場にしゃがみこんでしまった。
足にまったく力が入らない。
なんとか立ち上がってタクシーを止め、走り出すとすぐにみずきに電話をかける。

「私よ」 
仕事の邪魔になろうが気にしているときではない。
「ごめん、ほんとうにごめん。知らなかったのよ。
あいつが私の前にリョウちゃんに手だしてたなんて」
「上野さんは?」

「丸め込んで帰ってもらった。
今度たっぷりサービスするからって」
ごめん、あれから大丈夫だった? とまたみずきは謝ったが、
怒りより当惑のほうが大きかった。
「ねえ、私どうしたらいい?」

「斉藤さん鋭いからデリヘルに問い合わせるかも。
私今から行って、“クラブ”のこと話さないでって支配人に口止めしとく。
だからリョウちゃんはずっとしらんふりしてて。
ただの人違いだって言い張るの。わかった? 
でも万一のために、ジェインにも電話する。いい? できるよね」

だがその夜、ジェインはなかなかつかまらなかった。
留守電にメッセージを残し、コバにも伝言を頼む。
マンションに帰ってぼーっと時計を眺めていると、ようやく電話があった。
事情を話すと、ジェインはすぐに、
「大丈夫だ。安心して」と言った。

「私、知られたくなかった」
「まだ知られたわけじゃない。
みずきがすぐに動いてくれたようだから、
たぶんデリヘルからこっちが割れることはないだろう」
「でも……」

「大丈夫。だいたい君は、誰に恥じるようなこともしてないじゃないか」
「だけど、もし知ったら、そうは思ってくれない」
「そうなっても、僕がちゃんと話をする。心配するな」

ジェインの声に、次第に落ち着きを取り戻した。
恥ずべきことはしていない、そう言ってくれたことで、
リョウは自分が取り乱したことが逆に恥ずかしくなった。

私はみずきやモモに対して、何の偏見も持っていないはずではなかったか。
それに最初は彼らとまったく同じことを、私もしようと思ったのだ。
性を売ることは、果たして恥ずかしいことなのか。
性的な妄想を売るのと、どこが違うと言うのか。

覚悟が、足りなかった。
リョウはそう自分を責めた。 

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