3-01 クラブ・ジェイン/マリエ

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シライとは時々会うのが習慣になった。
たいてい週末の昼前から夕方までで、二回に一回はホテルのプールで泳ぐ。
映画を見たり、レポートの資料探しに付き合ってくれることもあった。

大学祭に誘ってみると、嬉しそうにやってきた。
友人たちには兄代わりに育ったいとこなのだと紹介する。
約束の学食にも連れて行った。

「さすがに二人前は無理だな。
昔はそれでも足りないくらいだったのに」
「この量で二人前!?」 
ボリューム定食を一人前ペロリと平らげたあとだ。
これを二人前も食べる男子学生などリョウは見たこともない。

「あの頃には戻れない」
めずらしくシライの声がしんみりとしている。
「戻りたいの?」
「ああ、戻りたい。戻って、マリエとは友達のままでいる」
シライの大学時代の話にはよくジェインが登場したが、
女の名前が出たのは初めてだった。

「そのひと、お兄さんの恋人?」
「マリエのこと、ジェインから聞いてないのか」
「いいえ」
「昔の話だからな」

それよりルゥの恋人はどうなんだと問われ、すこしあわてた。
そのままマリエのことも忘れた。
だが夕方になり、乗せられたタクシーの中で、なぜかマリエの名が浮かんだ。
だれだっただろうか……。

そんな名前の友人はいないのに、初めて聞いた名前と思えない。
このままシライと別れてしまえば、確かめる術はなくなってしまう。
だからほんの軽い気持ちで、言ったのだ。
「ねえ、今夜は飲みにいきたいの。
クライアントとアクターでなくていいから、どこか連れていって」

シライが迷っているのがわかった。
「それとも、もう奥さんのところに帰らないといけない?」
「奥さん、か……」
通りのネオンに照らされた横顔が、少しゆがんで見える。
「よし、ルゥがつきあってくれるなら、今夜はとことん飲むぞ」

シライは、人ごみで溢れる繁華街の近くでタクシーを止めた。
確かこの辺だったはずだと、細い通りを何度か曲がる。
ようやく足を止めたのは、壁がテラコッタ色に塗られた居酒屋だった。
ドアの横にスペインの国旗が突き出ている。

壁も木製のドアも妙に新しくて、昔からある店のようには見えない。
入り口を照らす明るすぎるライトも、
壁に掲げられた“グラナダ”と記された大きな看板も、
イマドキの若者を目当てにした、カジュアルな店にしか見えない。

「なんだか変わっちゃったな」
低い天井に跳ね返る陽気な喧騒に、シライは声を張り上げた。
「もっと汚い居酒屋だったのに」
「無理よ、このあたりで10年以上も変わらない店なんてあるわけない」 

“おすすめのタパス”と書かれたメニューから、
チョリソと生ハムの盛り合わせやトルティーヤを選ぶ。
ワインはスペインのリーズナブルなものが数種類あるだけだったので、
その中から軽めの赤を頼んだ。

「ここ、よく来たの?」
「よく来たのは隣のラーメン屋」
居酒屋の両隣のどちらにも、ラーメン屋などなかった。
左は間口の狭いバーで、右は24時間営業の漫画喫茶だった。

「ツァイチェンって名前の、カウンターだけの店。
中年のおやじさんと、年上のおかみさんが二人でやってた。
小さな藍染ののれんがかかってたな。
店の前には練炭のコンロが出てて、その上にでかいなべが乗ってるんだ。
そのなべではスープが長い時間かけて煮込まれてる。

おやじさんは無愛想で、化粧の濃いおかみさんはきれいに着物を着て、
真っ白い割烹着をつけてた。
髪はいつも、着物雑誌のモデルみたいにかっちりと結い上げて」

「ラーメン屋のおかみさんじゃないみたい……」 
リョウが感想を口にすると、そうなんだよと、シライは身を乗り出した。
「なんだかいわくありげなんだ。
それに二人が並んでると、時間がずいぶん前から止まってるみたいだった。
あの頃だって、さらに何十年も前にタイムスリップしたような気になった。
マリエはそれが面白いって……」

リョウはその先の言葉を待った。
だがシライは、うまかったなあのラーメン……、と、話を戻した。
「澄んだスープで、麺は細くて、チャーシューはとろけるよう。
薄味に煮たレンコンとごぼうと、白髪ねぎが山ほど乗ってる。
あんなラーメン、二度と、どこでもお目にかかれなかった」

シライの言葉に、口のなかにつばが溜まってくる。
ぱさついたトルティーヤは少しも食べた気がせず、
味の薄いワインでも少しも酔えないでいたのだ。

「二度と、どこでも……」
シライがもう一度小さくつぶやいたが、
その言葉は隣のテーブルの女性客の甲高い笑い声に飲み込まれてしまい、
リョウにはよく聞き取れなかった。

えっ? と聞きなおすと、シライはまた声を張り上げた。
「ここも昔はこんなじゃなくて、ただのきたない安酒場だった。
だから時々はラーメンのあとこの店で飲んだりもできた。
いつも金のない俺たちにはありがたかったよ」

けれども、落ち着きなく店内を見回す今のシライに、
この店は少しもありがたくはなさそうだ。
ワインは半分も減っていなかったが、
出ようか? と言われてむしろリョウはほっとした。

「酔った?」
シライが聞いた。タクシーが走り出してしばらくしたときだった。
「まさか。全然足りないわ」
「もう帰る時間だろ」 
「とことん飲むじゃなかった?」

再びシライの口から出たマリエのことを、どうしても知りたくなっていた。
今夜を逃したら、このようなチャンスは二度と訪れないだろう。
リョウはもうひと押ししてみる。
「それともお兄さん、あんなまずいワインで満足なの?」
「じゃもう少し飲むか……」 
しょうがないな、という口ぶりで、シライはいつものホテルの名を告げた。

バーに行くのかと思っていたら、シライは部屋を取った。
リョウは黙って従う。
何を求められても応じようと、心に決める。
今夜はクライアントとアクターではない。

シライはジャケットを脱いでベッドに放り投げ、
ネクタイを緩めながら言った。
「口直しに、ワインでもブランデーでも好きなのを頼め。
俺はシャワー浴びてくる」

メニューにはそこそこの銘柄のワインも並んでいたが、
ブランデーやウィスキーの品揃えも豊富だった。
醸造酒と蒸留酒では酔い心地が違う。
今夜は蒸留酒で頭を冷静に保つのがいい。
しばらく前に日本の企業がオーナーになったボウモアがあった。
海の香りがすると言われるスコットランドの酒だ。

放り出されたジャケットをクローゼットにかけていると、
バスローブ姿のシライが出てきた。
「ルゥも汗、流して来いよ」 
今夜はルゥじゃないでしょ、と言いたかったが、黙っている。
自然な雰囲気を壊したくはない。
それにリョウだって、やはりシライをお兄さんと呼ぶしかない。

シャワーを浴び、バスローブをはおる。ウィスキーが届いていた。
「ロックでいい?」
「ボウモアを水で薄めるやつなんているか」

何杯めかのロックを作るリョウの手元を、シライはじっと見つめた。
「マリエ……」
驚いてボトルをテーブルに置くと、シライの腕が伸びてきて、手をとられた。

「不思議だよ。ルゥは少しもマリエに似ていない。
なのに時々、ふっとマリエを思わせるときがある。
憎まれ口をたたくとき、少し腹をたてて突っかかってくるとき。
それから今気付いた。ルゥが酒を注ぐ指、マリエにそっくりだ」
その言葉に、ジェインの視線が甦る。

シライはそのままリョウの手を引いた。
抱きすくめられ、唇が重ねられた。
シライの大きな手はリョウの首から胸元に入り込み、乳房に達した。
だがシライの愛撫に、少しもからだが反応しない。
フラッシュバックのように浮かぶジェインの視線を追って、
リョウの肉体も気持ちも、そこにはない。

「やっぱりルゥはマリエじゃないな」
シライの言葉にわれにかえる。しまったと思ったが、遅かった。
「マリエなら今頃俺の指で、欲しくてたまらなくなってるはずなのに」
リョウは唇を噛む。モモも、みずきだって、
この状況ではたやすく相手に合わせてマリエを演じることが出来ただろう。

だけど、
「私マリエさんのこと、少しも知らないんだもの」 無理だわ、とも思う。
シライは、リョウのはだけたバスローブの前を合わせる。
「知りたいか」 
リョウはだまって頷く。

 

—マリエは演劇部で、一年生のときからヒロインをやってた。
ファンも多かったけど、ジェインといつも一緒だった。
ジェインだって同じで、おっかけがいるくらい人気者だったけど、
マリエと付き合いだしてからは、皆遠巻きにするだけになった。

それくらいあの二人は、そう、お似合いで、
他の誰も二人の間には入り込めないように見えた。
もっとも俺は、そんなことあとから周りのやつらに聞かされるまで、
何も知らなかったんだ。

アメフトのドキュメントを撮るのに、ジェインはマリエを巻き込んだ。
汗臭い男しか出てこない映画なんか誰が見るか、と言って。
俺は反対した。女は女、アメフトはアメフトだ。
チアガールの応援でもカットバックで入れればいいじゃないか。

だがアメフトを何も知らない女子大生が、
次第にアメフトの面白さに目覚める姿をからませたいと、
ジェインは譲らなかった。

それはドキュメントじゃない、フィクションになっちまう。
結局シナリオなし、本当に何も知らない女が、
素の状態でその場に身を置き、感じるままに語る、それで折り合った。

マリエは整った美人というのとは違うが、不思議な魅力があった。
だけど生意気で、人をバカにしているようなところが鼻について、
俺は最初あまり好きにはなれなかった。

だがジェインが撮った、練習や試合を見詰める姿は一途で、
文句なしにきれいだった。
よくわからないけれど、でも興奮したわ、
試合を終えた俺にマリエは言った。

そのうち俺とジェインが会うときに、マリエも来るようになった。
二人だけで仲良くして、私をのけ者にしたら承知しないって、
一度酔っ払ってからんだことがあった。
ラーメン屋も、居酒屋も、だから三人で行った。

ドキュメンタリーの撮影が終わって、学園祭での上映も済んで、
ああ、評判はよかった。
試合は男子学生だけでなく、女子学生もけっこう応援してくれて、
おかげて成績もまずまずだったし。
これでもうあいつらに会う機会はなくなるのかと思ってたが、
どういうわけか俺たちは、相変わらず三人で会い続けた。

ある日飲みながら、俺はジェインに言った。
お前たちのこと見せ付けられてばかりで、いいかげんうんざりだ。
ジェインのおっかけの誰か一人ぐらい、紹介してくれたっていいじゃないか。
マリエの友達でもいい。
そろそろ就活が動き出して、アメフトからも半分足を洗った頃のことだ。

あたしだけじゃ不足ってこと? マリエはふくれた。不足って、
マリエはジェインの恋人で俺の恋人じゃないだろうが! と、怒鳴りつけた。
俺がどんどんマリエに惹かれるようになっていたことを、
他の女でもあてがってもらわなきゃ、
もうどうしようもないところまで来ていたことを、
ジェインはたぶん知っていた。

わかったよ、どんな女がいいんだ? 
ジェインに訊かれて妹の話をした。
マリエ以外で会いたい女は、妹だけだったから。

来週この居酒屋でデートできるようにしてやる、
ジェインの言葉を、安請け合いとは思わなかった。
あいつならたとえ翌日にだって、セッティングできただろう。
 

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