2-04 クラブ・ジェイン/ルゥ

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“オステリア”に行くなら少しでも早く着きたい。
だが金曜の夜、タクシーはなかなか捕まらなかった。
大通りで待っていてもほとんど空車が通らないので、思い余って裏通りに入る。

ここには最近オープンしたラブホテルが1軒ある。
もしかしたらタクシーでやってくるカップルがいるかもしれない。
背の高い黒人の男と、その太い腕にぶら下がるようにしがみついた小柄な少女が、
通りの奥から歩いてきてホテルに消えた。

ラブホテルの数軒先に、めだたないバーがあった。
だいぶ前にみずきに連れられて入ったバーだ。
あのときはただ飲んだだけで帰った。
そのまま忘れていたのに、ジェインからの連絡を待っているこの三週間、
時おり思い出すことがあった。
もう一度行って、ゆっくり話しを聞いてみたいと。

バーの青白い看板に吸い寄せられるように、リョウは歩いた。
そのとき、バッグの中で携帯が鳴った。ジェインだった。
「仕事は終わった?」
「ええ……」
少し早く終わったのでもう店は出ていると告げ、車の音に振り向くと、
タクシーがゆっくりと通りに入ってくるのが見えた。

「ちょっと待って」
軒先に身を寄せる。
そうしななければ車一台が通れないくらい細い道なのだ。
バーかラブホテルで客が降りれば、
このタクシーでオステリアに行こうとリョウ思った。

だがタクシーは予約車で、小さなクラクションを合図にバーの扉が開き、
出てきた男と女が乗り込んだ。
男はまだ若く、女は男より一回りは年上に見える。
男はリョウを見て微笑んだが、女は視線すら合わせなかった。

後ろにいた中年の男が二人をにこやかに送り出し、
続いてリョウに会釈をした。マスターだ。
リョウも覚えていたが、向こうもしっかり客を記憶していたようだ。
「どうぞ」 
タクシーが走り出すのを待って、マスターが扉に手をかけて言った。
「わ、私……」

「ルゥ、君、どこにいるんだ?」
マスターはまだ扉を押さえたまま待っている。
「バー・フィノッキオ」
リョウは看板に記された名を読んだ。

しばらくジェインは何も言わなかった。
「もしもし……、でも私、これから」 オステリアに行きます、
と言おうと思ったのに、ジェインにさえぎられた。
「わかった。楽しんでくれ。
だが今夜じゅうに話しておきたいことがある。バーを出るときに電話して」

バーの名をジェインは知っていた……。
通話終了の画面を一瞬だけにらんで、リョウは携帯をバッグにしまった。

店は外から想像するよりはるかに広い。
店内はほぼ満席で、リョウはカウンターの片隅に案内された。
ボックスを占めている大半は二・三人の若い女性グループで、
カウンターでグラスを傾けている一人客のほとんどは様々な年齢の男たちだ。
その間に挟まれるようにして、少し年配の女性が座っているが、
いずれの客の隣か、あるいは前にはボーイたちがいる。
ボーイの数もこの前より多いようだ。

「いらっしゃい。
せっかく来てくれたのにごめんね、こんな席しかなくて。
そろそろボックスも空くと思うから、それまでがまんしてくれるかしら」
マスターがリョウの緊張を解くように言った。

常連で上客のみずきが連れてきた初心者に、
そそうがあってはならないと思ったのか。いや、違う。
マスターはまだ場に慣れていない客に、気を使ってくれているのだ。
このような世界であっても、多くの人に支持される店にはそれなりの理由がある。

「おわびにミモザはどう?」
この前注文したカクテルの名をマスターは覚えていた。
覚えていてくれたというだけで、客は嬉しくなる。
今夜はミモザの気分ではなかったのに、リョウは頷いてしまう。
「気に入った子がいたら言ってね。引っ張ってきてあげる」

店内に露骨な雰囲気はない。
ただ、ボーイたちの自信に満ちた肉体がほの暗い照明の中を移動していくとき、
その姿を追う男や女の目が少し光るだけだ。
あるいはふと会話が途切れたとき、客は一様に、
相手の表情に何かの徴を探そうと目の前のボーイを見つめる。
自分だけに発せられる特別の徴があるはずだと。
もちろんそんなものはない。やがて客は悟る。今夜も自分が決めるしかないのだと。
楽しく飲んで話して、それで満足して帰るか、
それともこの先に進むのかどうか。

奥のボックスから青年が立ち上がった。
女性客をエスコートして出口に向かう。
しなやかな身のこなしに見覚えがあった。
あのときみずきが指名したボーイだ。
この店のナンバーワンの、名前は確か、ケン。

リョウの脇を通り過ぎるとき、
一歩先を行く客に気付かれないように体をひねり、
リョウに目で合図を送ってくれた。
また来てくれて嬉しいよ、楽しんでる? 
視線に込められた饒舌さに、リョウは驚いた。
彼もまた自分を覚えてくれていたということにも。

「ケンちゃん」
開けられた扉から外に足を踏み出しながら、客が言うのが聞こえた。
仕事の帰りなのだろう、エレガントなシルエットのパンツスーツは、
先週セレクトショップのウィンドウの中で見たものに良く似ていた。

「私、やっぱりよすわ。
今夜はなんだか彼が来そうな予感がするの。
もし来なかったら電話するかもしれないけれど」
「いいですよ、僕は。寂しくなったら連絡ください。いつでも……」
徐々に閉じていく扉の隙間から、女を抱きしめるケンの背中が見えた。

「ボックスに移る?」 
マスターがリョウに訊いた。
「いいえ、ここでいいです」
「ま、ここでいいの? 遠慮しなくたっていいのよ」 
「あ、いえ、ここがいいです」

この席は店内をこっそり見渡して客を観察するのに、最適の場所だった。
マスターは怪訝そうな表情を浮かべたが何も言わず、
隣に座るケンと入れ替わるようにその場を離れた。
「これ、僕から」
新しいミモザのグラスがリョウの前に置かれた。

「また来てくれて嬉しいよ」
そう言ってグラスを合わせる。
言葉は視線よりは少しわざとらしい。

「だれかお目当てがいる? 
今夜は皆忙しそうだけど、言ってくれれば……」
「あなた」
ケンが喜びの笑みを浮かべた。鮮やかで、きれいな笑いだった。

「ありがとう。ワイン、開けようか」
「一緒に飲んでくれる?」
「いいよ。リョウちゃんが飲みたいなら、まだ付き合える」
名前まで覚えていてくれたことに感動すら覚える。

ケンは肩のこらない話題を次々に提供し、会話は楽しかった。
リョウも訊いてみたかった質問を気軽に口にできた。
「最近男より女の客が多くなってきてありがたいよ」
「でも……、だとしたら、よく男の人も相手にできるわね」
「仕事だから」 
さらりとケンは答えた

何故ここに勤めることになったのかと尋ねると、
半年前まではホストクラブにいたと言う。
「大学を中退したら、親からの仕送りがなくなった。
必死に職探しをしたよ。だけど現実は厳しかった。
アパート代にも困るようになって、

ある日、友達に誘われてホストクラブの面接に行った。
そしたら僕だけ通ったんだ。でも、なじめなかったね。
一番苦手だったのは客との駆け引き。
いくら金をつかわせるか、そのテクニックを競うのに疲れ果てた。
ルックスだけの勝負じゃないってのは同じでも、ここのほうがずっといい」

なんとなくわかる気がした。
母がさんざん振り回されたホストに共通の雰囲気が、ケンにはない。
虚構の夢を同じように売るにしても、きらびやかな形を売るのか、
それともストレートに手ごたえのある、生身の肉体を売るのかの違いだろうか。

「ねえ、さっきの人だけど、彼氏がいるのに何故、」
「男を買いに来るのか?」
ケンは長い前髪をかきあげて笑った。

「好きな相手が必ずしも最高のセックスパートナーとは限らない。
かえって遠慮したり、
相手に合わせてばかりで自分は気持ちよくなれなかったりするだろう?」
「そうかもしれないけど……」

「人間て不思議だよ。
金を払うことで自分に正直になれる。
素直に甘えたり、望むことを何のてらいもなく口にできる」

知らぬ間にワインの瓶が空になっていた。
店内の喧騒はいっそう大きく、照明はさらに暗い。
ボックスからはさざなみのように、女たちの笑いが届く。
その笑いに込められた熱に興味を惹かれた。
だが、ジェインの電話での言葉も気になっている。
話しがある、今夜じゅうに……。彼はそう言った。

けれどもリョウには、ほんの数秒のジェインの沈黙が重かった。
また君の意外な一面が見られたな、とは、
今度は言ってくれないかもしれない。
採用は決まっている、とまた言ってくれる確証もない。

だったらこんなところでぐずぐずしていないで、
すぐに“オステリア”に向かったほうがいい。
だがリョウはわだかまってもいた。
この店がどういう店か知って、それでジェインは言ったのだ。
楽しんでくれ、と。

ケンが水のコップを差し出していた。
「まさか酔ってないよね?」
「いいえ」
「これからどうする?」
さっきの話の続きをしたかった。
「もう少し、お願いします」

ケンはリョウを外に連れ出した。
細い通りを大通りに向かいながら、リョウは約束を思い出し、
ジェインに電話をかける。
「今、バーを出ました」
「これからは?」
「もう少しだけ……、そしたら帰ります」
「わかった。帰ったら電話をくれ。何時でもかまわない」

大通りでケンはタクシーを拾うつもりのようだった。
だがなかなかつかまらない。
「バーで呼べばよかったな」
そうケンがつぶやいたとき、
見覚えのある黒塗りのジャガーが近づいてきて、二人の前で停まった。 
「知り合い?」
ケンが不審な表情でリョウを見る。

だまったままリョウが後部座席のドアをあけて乗り込むと、ケンも続いた。
「どこまで?」
ジェインに問われ、ケンはリョウを見た。
リョウが頷くと、最近オープンした外資系のホテルの名を告げた。

ホテルの最上階のラウンジバーでケンは迷わずリョウの隣に座り、
ブランデーを二つ注文した。
「だれ? さっきの人」
「ちょっとした知り合い」
「恋人か、それとも兄貴かと思ってびびったよ」
「どちらでもないわ」

もうさっきの話の続きを聞く気持ちにもなれない。
ケンの輝きも、店を出たとたんに褪せていた。
「なにか悩みでもあるの? 言ってくれれば……」
その声には、温かみが足りない気がする。
それに今リョウの頭を占めているのは、
無言のまま運転するジェインの広い背中だった。

「いいえ、ちょっと疲れてるだけ……」
ケンはリョウの腕を軽くたたき、
部屋でマッサージしてあげるとルームキーを取り上げた。
エレベーターのなかで、ケンはリョウの肩を抱いた。そっと髪をなでた。
だがそれがリョウには、約束事の演技に思える。
思ったあとで胸のうちで苦笑する。演技でないはずはないのに、と。

部屋のドアにキーを差し込んでいるケンの背中に、リョウは告げた。
「ごめん、私、帰る。ホテル代は払っていくわ。
もちろんあなたの朝までの分も……」
えっ、と振り向いたケンの表情がおかしい。

「まいったな。僕、リョウちゃんには役不足だった?」
「そうじゃなくて……。全部私の問題なの」
「じゃ、また店に来てくれる? 
それならホテル代だけ払ってくれればいい。
久しぶりに一人でゆっくり寝るよ」

フロントで精算を済ませ、エントランスから外に出る。
「タクシーですか? 少しお待ちを」
ドアマンが右手を高く上げると、待機していたタクシーがライトをつけた。
それを合図のように、背後から一台の車がタクシーを追い越して滑り込んでくる。
漆黒の、ジャガーだった。

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