2-02 クラブ・ジェイン/ルゥ

jein_title.jpg

 

ここはどこなのだろう。
乾いた手触りのいいシーツは、自分のベッドのものではない。
恐る恐る右手を伸ばしてみる。マットレスの果てはない。
今度は同じように左手を伸ばしてみる。やはり手は熱のこもっていない、
ひんやりとしたシーツの心地よさをまさぐるばかりだ。

うっすらと目を開け、自分が広い部屋の真ん中の、
大きなベッドに寝ているのを確認する。
切れ切れに記憶がよみがえる。
モモのペニスを握ったこと。アイスピックを握るように。
”オステリア”で、あのときジェインの指を握ったように。

モモが私のはだけた胸にしゃぶりつくように唇を寄せ、
それから……、それからどうしたのだったか。
ふわりと、体が浮いたことは、かすかに覚えている。

そうだ、私をベッドまで運び、
好きにしろよ、そう言ってジェインは部屋を出て行こうとした。
だめ、あなたもここに、一緒に寝て。

リョウはジェインの胸にすがるようにして眠りに落ちたのだ。安心して。
ずっと待っていた人が来てくれたように思えて。
だがベッドには、右に寝ていたジェインも、
左に横たわっていたモモもいない。

昨夜飲んだワインの量から、ひどい二日酔いを覚悟してからだを起こす。
けれども予想とは違って頭は重くもないし、
胸の奥からこみ上げる不快感もない。

部屋を見回す。服は……、どこにもない。
リビングに脱ぎ散らかしたままだろうか。ひと気のない、
見知らぬ家の廊下を裸で歩くのは落ち着かなかったが、仕方がない。

ソファーの前のテーブルには、厚みのある本が何冊か乗っている。
昨夜ジェインが、プラドのティツィアーのダナエや、
他の画家のダナエを見せようと、書棚から取り出したものだ。
だが結局本は開かれなかった。

服を持って寝室に戻る。
壁の一室が透明なガラスになっていて、その向こうはバスルームだ。
明け方、雨の音がすると目が覚めると、
透明な壁の向こうでジェインがシャワーを浴びていた。
はっきりと、その姿を見た覚えがある。
それなのにバスルームは使われた痕跡もなく、乾いていた。
あれは夢だったのか……。

だが、今のリョウにはゆっくりと記憶をたどる時間はない。
急いでシャワーを浴びる。
鏡の前には、未使用の基礎化粧品の小瓶が置かれていて、その横にメモがあった。
『オフィス・J経営のビューティー・サロンのものだ。
モモを送ってくるから、朝食を食べて待っているように。ジェイン』

できればジェインと顔を合わせずに帰ってしまいたかった。
これで採用は流れたかもしれない、とも思う。
けれどもそれならそうと、はっきりと告げられたほうがいい。
気まずさを抱えたまま何日も過ごすのはいやだ。

リョウは覚悟を決めて、用意されていたバスローブではなく、
自分の服を着る。
シャツのボタンを一番上までとめる。

リビングに戻る。ジェインはもうすぐ帰って来るはずだ。
早くこの場から逃れたい、だが同時に、
いつまでもここにとどまりたいとも思う。

テーブルの上に積み重ねられた一番上の本を手にとる。
19世紀末のウィーンの画家クリムトの画集だ。
挟まれたポストカードのおかげで、自然にダナエのページが開く。
カードは暗い背景にバーのカウンターが浮かびあがったモノクロ写真で、
どこか“バー・ニュイ”を思わせた。

不自然に広がる周囲の空間と強いスポットライトで、
舞台の一場面だとわかる。Mで始まる判読しにくいサインは、
カウンターの中で横顔を見せている女優のものだろうか。

クリムトの絵は、見たことがあった。
雑誌だったか、それとも母が持っていた世界名画全集のなかでか。
だがそのときには、これがダナエだということも、
ダナエにまつわる物語がどういうものなのかも、知らなかった。

ダナエの父アクリシオスは、自分の娘が生む子供に殺されるという神託を受け、
彼女を青銅の塔に閉じ込め、老婆を見張りにつける。
だが父の懸念もむなしく、回避策は無駄に終わる。
ゼウスが天からダナエを見初めてしまったのだ。

ゼウスは黄金の雨となってダナエと交わる。
やがて生まれた英雄ペルセウスは、ある日競技会で円盤を投げ、
それが祖父のアクリシオスにあたってしまう。
こうして宣託は現実のものとなった。

クリムトのダナエでまっさきに目に入るのは、現代的な女の顔だ。
モデルか女優のようにきれいなカーブを描く眉、
閉じられたまぶたを覆うまつげ、そして深い喜びに半開きになった赤い唇。

それから視線は、ほぼ正方形の画面に、
ダナエの全身が不自然に折り曲げて描かれた構図を捉える。
前面の、カーテンの布地のような濃い色に対比する白い豊かな腿が、
迎え入れ、挟み込み、締め付けているのは、まさに黄金の雨だ。

高速のシャッタースピードで捉えられた後、
ゆっくりとスローモーションに切り替わって、
延々と引き伸ばされたダナエの恍惚の一瞬。彼女の歓喜は、
やがて甘いまどろみに溶けていく。

同じようなまどろみが、昨夜のリョウにも訪れた。
リョウはこのダナエのように満足して、眠りに落ちたのだ。
全体の記憶はあやふやなのに、この絵は昨夜の自分だと、リョウは思った。

一方レンブラントのダナエは、光と影の陰影が美しい。
女の肉の柔らかな質感、重力にしたがってたわみ、陰りをつくる女の胸と腹。
それから印象的なのは、画面の外に兆す黄金の雨に向かってさしだされた腕。

レンブラントではカーテンの陰で様子をうかがうだけだった老婆は、
プラドのティツィアーノでは、物語に重要な役で登場している。
天から降り注ぐ雨に視線を向けるダナエは、重ねた枕に悠然とからだをあずけ、
自分に訪れる未来を少しも疑っていない。
だが哀れな老婆に未来はない。目の前の現実にただ踊らされている。

金の雨を受けようと、広げた布の端を握り締める無骨な指、
筋の浮き出た腕、くすんだ肌、骨ばった背中。
ダナエのふくよかさ、柔らかさ、優美さ、肌の白さ……。
一方老婆が身にまとうものは、若さを伝えるダナエの全ての属性と反対のものだ。
世俗的な時間の中に生き、その時間の終焉を間近かに見るくぼんだ眼。

だが老婆も欲してはいるのだ。黄金の雨を。
いや、老婆は数十年後のダナエなのかもしれない。
もはや自信を失った、それでも降り注ぐ雨を待ちわびる……。

食い入るように画集をみつめていると、突然空腹を感じた。
勝手に朝食を食べるなど思いもよらなかったが、
この期に及んで意地を張るのも、ばかばかしい。

冷蔵庫から卵を取り出し、スクランブルエッグを作る。
ベーコンもカリカリに焼く。新鮮なフルーツをカットし、ヨーグルトであえる。
トーストにはたっぷりのバターとジャム。
それから大ぶりのカップにカフェオーレ。三枚目のトーストを焼こうか、
それともフレンチトーストなんてものを作ってみようかと迷っていると、
ジェインが帰ってきた。

「ずいぶん豪勢だな」
おはようもただいまもなく、よく眠れたかとも、ジェインは訊かなかった。
「最後の晩餐、じゃなくて最後の朝食、かもしれないから」
「最後?」
「私の採用、取り消しですよね」

リョウの言葉に、ジェインは笑った。
「採用はもう決まっている。昨夜のことは関係ない」
「あんな醜態をさらしても?」
「問題ない。君の意外な一面が見られてかえってよかった。
それより腹ペコだ。まさか僕の分がないなんて言わないだろうな」

リョウはフレンチトーストを皿に山盛りになるほど焼き、
コーヒーを二度入れなおし、残っていたオレンジの皮をむいた。

「夕べのこと、ちゃんと覚えてる?」
ジェインが最後のオレンジの一切れを食べ終えると、言った。
「ええ」
自信はなかったが、そう答える。
「モモと僕と、どっちが良かった?」

一瞬耳を疑った。どちらとも寝た記憶がなかったからだ。
だがジェインがそう言うのなら、もしかして二人と寝たのかもしれない。
「どちらも、よかった……、です」
そう言ったとたん、突然ジェインの声がよみがえった。

『やめとけ』 
モモが答える声も。
『だって、こんなに欲しがってる』
『彼女は男が欲しい。だがおまえを欲しいわけじゃない』
けれども、モモも、リョウも、ジェインの言葉を無視した。
かすかに、モモと寝た記憶だけが甦った。

それからは仕事の話になった。
携帯電話を渡され、説明を受ける。
「僕の電話番号がふたつ、マンションと携帯だ。
それから“オステリア”とビューティーサロンの電話番号も記憶させてある。
いずれかで連絡はとれるはずだ。

クライアントと落ち合う最初の指示は僕からする。
簡単な相手の場合は電話だけでも済むが、
いろいろ打ち合わせる必要があるときにはここか、“オステリア”に来てもらう。
とにかく全ての連絡と、クライアントとのやりとりはこれでするように。
ただ、モモに連絡するときだけは、できれば公衆電話を使ってくれ」

ジェインはメモに数字を書きながら続けた。
「モモの番号だ。これは、今覚えて」
覚えやすい番号だった。
しばらく数字を見つめてから頷くと、ジェインはそれをまるめて、
オレンジの皮や卵の殻の乗った皿にほうり投げた。

「わかってると思うけど、あいつ、まだ未成年だから」
「彼を守らなきゃね」
「彼と君、それからオフィス・Jも」

ジェインの言葉の意味をそれ以上考えたくなくて、
リョウはバスルームにあった化粧品のことを尋ねた。
なかなか使い心地がよかったのだ。

ビューティーサロンは、今はネイルケアとヘアケア、
それにエステティックを兼ね備えた店が一軒あるだけだが、
そのうちどこかの温泉施設を買いとって、泊りがけでゆっくりと
集中的なボディケアができるようなクアハウスをオープンしたいのだと、
ジェインは語った。

イタリアのテルメのように、医師や専門スタッフを配して、
体の内面から美と健康を取り戻すようなメニューをつくる。
食事と運動も組み合わせて。
場所は、距離的には熱海か伊東あたりがいいが、
景観としては下田だなと、珍しく饒舌にジェインは語った。

さらに仕事の説明といくつかアドバイスを受けた。
“クラブ”はアクターに対してなんの強制力も拘束力もないということ。
いつでもアクターをやめる事ができること。
システムとしては、クライアントが自由にアクターを選ぶのではなく、
求める関係性をジェインに伝えておき、
それに応えることができそうなアクター数人をジェインが紹介する。

そのなかからクライアントは一人を選ぶか、
あるいは順番に全てのアクターを試してみることもできるのだという。
関係はしばらく続くこともあれば、一度で終ることもある。
だがセッティングは全て“クラブ”を通して行われる。

「最後に……」
ジェインが続けた。
「君にはセックスも求められるだろう。だが、
それに応じてはならない」 

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*