1-07 クラブ・ジェイン/リョウ

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力が抜けたようになって、リョウは再びベッドにもぐりこんだ。
ジェインやモモやみずきの言ったことが、脈絡なく頭の中をぐるぐるとまわる。
やがて浅い眠りが訪れた。夢は見なかった。

目覚めると西日が部屋に差し込んでいた。
壁の時計の針は、午後四時を指している。
あわててシャワーを浴び、化粧もそこそこに部屋を飛び出す。
足早に商店街を通り抜け、駅についたとたんに気づいた。
とても仕事などする気にならないことを。

斉藤に電話をし、クーラーをつけっぱなしで寝たら風邪を引いてしまった、
今日は休ませて欲しいと告げる。
この半年で始めてのことだったから、斉藤は疑いもせず、
大事にしろよと電話は切れた。

駅前の大型書店に入る。
昨日ふと手にとって買い求め、
ジェインの部屋に忘れてきてしまったヴェネツィア派の画集が、
もう一冊残っていた。たぶん、もうジェインの部屋に行くことはない。
こちらから連絡しなければ、ジェインがリョウの前に現れることもないだろう。
せめて同じ画集を手元に置いておきたかった。

書店の片隅のカフェテリアに腰を落ち着け、画集を開く。
ティツィアーノのウルビーノのヴィーナスで、
やはりリョウの指はページをめくるのを忘れた。

まるで肌の湿り気までわかるような裸身だ。
無骨な男の指は触れる前におののき、中空で止まってしまうだろう。
男のためらいがちな欲望に、ヴィーナスは優美な微笑を向ける。

一方隣のページのダナエは期待に満ちた表情を浮かべている。
視線は降り注ぐ金の雨の中に、愛しい男を捉えているかのようだ。
目の前に男の肉体がないというのに、
男の指も肌も女に触れてはいないというのに、
女は自らの手で裸身を覆うシーツを取り去り、男に向かって体を開き、
やがて確かに押し寄せる官能を待ちわびている。
その表情は、意思的で清らかですらある。
長い時間、リョウはダナエを眺めた。

それからぱらぱらとページをめくると、一枚の肖像画に目がとまった。
栗色の髪が裸の肩から腰まで波打っている。
その髪は豊かな胸を隠すと言うより、むしろあらわにするためのように、
肉体にまとわりついている。
改悛のマグダラのマリアだった。
だがこれは宗教画と言うより、描かれた女性の魅力を歌い上げたピンナップ写真だ。
解説には、モデルはあるコルティジャーナとある。

コルティジャーナとは昔のヴェネツィア共和国の高級娼婦の呼び名で、
高い教養と洗練された物腰で一世を風靡した女たちなのだと記されている。
ではこの肖像画は、貴族や名士が集うサロンを切り盛りするコルティジャーナが、
とっておきの客を引き入れる控えの間にでもかけられていたのだろう。

ジェインが経営している秘密クラブは、彼女たちのサロンの進化形なのか。
それとも「世界で最古の職業」は、まったく進化などせず、
ただそれを求める人たちの欲望の形にあわせて、
姿を変えているだけなのだろうか。

だがジェインが “関係”と呼んだものは、
恋人同士だけでなく多岐にわたっていた。
父と娘、母と息子、兄弟や友人……。

冷めた紅茶をすすり、ふわふわのシフォンケーキを食べる。
口の中でまたたくまに溶けてしまうケーキの頼りなさが、腹だたしい。

それから数日がたった日の夜、
めずらしく早い時間に母がバーに顔を出した。
崩れるようにカウンターの奥の定位置に座り込む。

「ブルゴーニュの赤、開けて」 
斉藤に命じた声が、少し鼻に掛かっている。

「酔っ払いはウーロン茶にしたら」
「あら、リョウちゃん、あなたいつからそんなに説教くさい子になったの」
「ママが酔ってばかりいるようになってから。だから何年? もう10年か」

斉藤がグラスにワインを注いで母の前に置いた。
「一杯だけにしてください」
そのグラスを、母は一気にあおった。
「もう一杯、お願い。ね、さいとうくん、いい子ね。
ママのお願い聞いてくれるでしょ」

「いい加減にしなよ、みっともない」
リョウが声に低く力を込めると、母の目じりがきつくあがった。
「みっともない? 大きなお世話よ。
自分の店の酒を飲むのに、誰に遠慮がいるの。
それに、まだ大人にもなってないあなたに、ママの気持ちの何がわかる」

斉藤が水のコップを差し出した。母がそれを押しのける。
「ブルゴーニュ!」 
「まずこれを飲んで。そしたらもう一杯あげますから」

母は今度はおとなしく、グラスを口に運ぶ。
だが傾けたグラスから水はこぼれれ落ち、口に入るより顎を濡らすほうが多い。
だらしないな、そう言おうとしたとき、
斉藤が手に持ったナプキンで母の喉元を覆った。
その腕に母の首がしなだれかかる。
「リョウちゃん、タクシー」

言われるままに受話器を取り、タクシーを呼ぶ。
カウンター越しに腕を伸ばして母を支えている斉藤の横顔は、
怒ってはいない。嫌がってもいない。

力の抜けた身体を抱きかかえるようにして、斉藤がタクシーに母を乗せた。
「今日はもういいから。ママのこと、頼むよ」 
そう言われてしまえば、リョウは逆らうことなど出来ない。

タクシーの中で、母はぐったりと身体を背もたれに預けている。
だが、ルームミラーに映る母は眠ってはいなかった。
ぽっかりと暗い目を開けて、流れていく街のネオンを追っている。
家に着くとバッグから財布を取り出し、料金を払った。
車から降りる足取りも乱れてはいない。

まっすぐ、キッチンのワイン専用の冷蔵庫に向かう。
撫で肩の暗緑色の瓶を選び、
ソムリエナイフを使って、慣れた手つきで栓を開ける。
「まだ飲むの?」
母は答えず、カップボードからグラスを二つ取り出し、
静かにワインを注いだ。

「私、帰るから」
そうは言ったものの、やはり母の様子が気になった。
母はリョウを引き止めるでもなく、そのままダイニングの椅子に腰を落とし、
ゆっくりとワインを口に含んでいる。

「ママ、酔ってなんかいなかったでしょ」
母がリョウを見た。
それからいたずらがばれた子供のように笑ったので、
ようやくリョウも肩の力を抜く。

「うん、いくら飲んでも酔えない」
「だからって斉藤さんにからむの、よくないよ」
「他に誰もいないもの」
「まただまされた?」
「そうじゃなくて。彼、だましたんじゃないの」
まるで自分に言い聞かせるような母の口ぶりが哀れでならない。
こんな母を、見たくはない。

「気持ちが、変わった?」
「そうよ……、そう。人間、ずっと同じ気持ちでなんかいられないもの」
「どこのホスト?」
バーの売上を、全て貢いでなんていませんように。
サラ金から借金などしていませんように。
母が男にのめり込むたびに、リョウが恐れていたことだ。

「ホストなんかもうこりごり」
「違うの?」
「最近店に通ってくれてる、お客よ」
今まで客を相手にしたことなどなかったのに……。
「よっぽど兄さんに似てた?」
ううん、と母は首を振った。

もうユウにいを追いかけるの、やめなよ。そう言おうとして、
だがリョウは口をつぐむ。
兄が死に、父が帰らなくなり、リョウが出た家を、
母は離れようとしない。
この家は、10年前の時間を指したまま止まった時計なのだ。
母はまだその時間の中に生きている。

「そのひと、ここに来た?」
母は答えなかった。
きっと、今母が座る向かいの椅子に、その男は座っただろう。
母はブッフェブルギニヨンを作り、
牛肉を煮込むのに使ったのと同じブルゴーニュを、もう一本開ける。

男には、それらが意味するものはわからない。
わからないけれど、なんだか空気が重苦しいことに気づく。
若い男たちが母の元を去るのは、
けっして中年女のたるんだ肌にうんざりしたからでも、
金を搾り取ってしまったからでもない。
母が求めるものに応えきれなくて、息苦しくなって、逃げるのだ。

「帰るの?」
「それ、ニュイ・サン・ジョルジュ?」
母の問いには答えず、ワインに釣られたような振りで、リョウも腰をおろす。
以前自分が座っていた席ではなく、母の正面に。
ワインはざらついた味で、舌の上に渋みだけを残した。

母はひとことふたこと男のことを語った。
リョウはただ黙ってそれを聞いた。
時計の針は動かないのに、瓶のワインだけが減っていき、すぐに空になった。
母はふらりと立ち上がると、そのままバスルームに入っていく。

リョウの部屋はきれいに掃除がしてあって、
それがかえってよそよそしかった。
タンスにはパジャマや下着がきちんとたたまれている。
それらを取り出し、階下へ降りる。

兄の部屋を覗くのはやめた。覗かなくてもわかっている。
止まった時計の針の中心、流れていく日常に開いた巨大な穴、
幻影を鮮やかに映し出す暗いスクリーン。

なかなか母がバスルームから出てこないので心配になった。
酔ってひっくり返っているかもしれない。
覗いてみると、シャワーの音の下に母がいた。
「リョウちゃんも一緒に入る?」
「ううん。ゆっくり入って」

扉を閉めるとき、遠い記憶が甦った。
あの日兄は、リョウも入れよと言わなかった。
幼い少女に親しかった肉体が、急にギリシャ彫刻のように、遠い、
触れがたいものに変貌した夜。

いつもと同じようにそう言ってくれるのを待って、
それが得られないとわかり、震える手で扉を閉めた。
柔らかな雨のように打ち付ける雫の下の引き締まった背中、
鏡の中の、兄の手の中の屹立した男……。

「ママ、大丈夫だった?」
翌日、店に入ってくるなり、斉藤が訊いた。

「ぜんぜん。あのあと家でしっかり一本飲んでた。
ママはね、甘えたかったのよ。
また若いのに振られた馬鹿な女を、しょうがないなって慰めて欲しかったの。
でも斉藤さんには迷惑な話よね」
「そんな言い方したらママが可哀相だろ」

可哀相と思うならなんで……。リョウは斉藤がはがゆくてならない。
ママのことが好きなくせに。
好きだからこんな店でも見捨てずにいてくれるんでしょう、そう言ってやりたい。
けれども斉藤はきっと困った顔をするだろう。
バカなこと言うなよと、笑うだけかもしれない。

客が入ってきた。最近時々顔を見せる、
いつもはリョウが帰るころにやってくるサラリーマンだった。
「いらっしゃい、今日は早いですね」 
声をかけた斉藤に返事もせず、スツールに腰をおろす。

様子が少し変だ。
ビールを注文したのも飲みたいからではなく、
あらかじめ考えていた言葉を口に出しただけのように見える。
斉藤がビールグラスを男の前に置いた。
リョウは冷蔵庫からモレッティを取り出し、栓を抜いてグラスを満たす。

男はまるでアイスティーでもすするような飲み方でビールを飲み、言った。
「ママ、元気ですか?」 
心配しているというより、
早くいやなことを済ませてしまいたいような口ぶりだ。
まさか、この男が……。

だが間違いではなさそうだ。
青くもなく、熟れてもいない。
中途半端で迷いのただなかにいるようなこの男が、母の相手だった。 

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