1-06 クラブ・ジェイン/リョウ

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「守秘義務は?」
「仕方ないだろう」
「ちょ、ちょっと待ってください。じゃみずきさんとあなたは……」
「彼女と寝たのは僕」 
モモが表情も変えずに言った。

「彼女はテクニシャンだった。
あれじゃ高校生から老人まで相手にできる。
年上のいとこという役をごく自然に演じてくれた。

ひとつだけあなたの想像に通じるところがあったな。
彼女、今度は学校のお友達も連れてきなさいって、言ったんだ。
一緒に楽しみましょう、って。
そうね、あと二人ぐらいなら一度に面倒見て上げられるわって。
その言葉に僕はもう一度彼女を求めた。
彼女には、なんていうか、母性のようなものがあると思う」

「彼女の特徴はテクニックと母性的な懐の深さ、ということか。
だが、彼女が作りあげたセクシュアルな自己イメージは、
少しステレオタイプじゃないか。
要するに奮発すればどこでも手に入る」

「ジェインの言うことはわかる。
確かにクラブでアクターをやるには、誰も持っていない彼女だけのものが必要だ。
でも彼女はとてもアンビシャスな人だと思う」

みずきの相手はジェインではなかった……。

だが、そのことに捉われている余裕はない。
モモの口から飛び出す言葉を咀嚼するのに、必死だった。
それらの言葉はとても年若い少年のものとは思えない。
だが、そもそも彼がこの場にいるということは、
それだけジェインの全面的な信頼と、高い評価を得ているということだ。
それは次の二人の会話でも明らかだった。

「ではおまえの意見は?」
「なによりあの前向きなキャラクターは大きい。
これからもっと違う側面が伸びるかもしれないし」
「採用して間違いはないと?」
「僕はそう思う。優秀なアクターになり得る人だ。
わかりやすい路線の女だって、一人ぐらい“クラブ”にいてもいいじゃないか」

ビジネスライクで真剣なやりとりに、
リョウは自分を場違いな存在だと感じた。
だがこれは、二人がリョウに意図的に与えてくれた、
事態を飲み込むための時間的なインターバルなのだろう。

みずきはジェインではなく、この少年と寝たのだということ。
そしてそれは、アクターに採用されるための、
試験のようなものだったということ。

「だから、リョウさんの想像の一部は当たりだ。
僕はほんとうに背後から彼女に挿入したし」
でも……、とモモは視線を今度はリョウに移した。
「あなたの話のほうが、実際よりエロティックだった」

モモの言葉に、ジェインも肯く。
「一番気に入ったのは、
金色の雨となったゼウスがダナエに降り注ぐというイメージだ。
僕もできるものなら雨となって、愛する女と交わりたい」
ジェインが口にした最後の言葉があまりに静かで、
リョウはなんと言っていいのかわからず、
ソファーの片隅に投げ出された紙袋に手を伸ばす。

モモが、それは? と視線で問う。
「私、たまたま今日その絵が載っている画集を買ったの。だから……」
リョウは画集を取り出し、ダナエのページを開く。
「ずいぶん豊満だな。でも僕の好みはこの隣の……」
モモが横たわるヴィーナスを指差す。

「ティツィアーノ、イタリアのルネッサンスの画家だ。
今度教授に聞いてみろよ。やつの専門とは違うが、僕よりよほど詳しい。
おまえが気に入ったウルビーノのヴィーナスはフィレンツェのウフィッツィに、
ダナエはナポリのカポディモンテ美術館にある」 

遠くから一瞥しただけでジェインは言い、それからリョウに尋ねた。
「ティツィアーノのダナエがもう一枚あるのは知ってる?」
「いいえ」
「マドリッドのプラドのものも、ダナエのポーズは同じだ。
だが筆のタッチはもっと荒々しくて、
キューピッドの代わりに召使の老婆が描かれている。
老婆は黄金を受けとめようとスカートの布を両手に広げていて、
ダナエとの対比が面白い」

「詳しいんですね」
素直に、リョウは驚いたのだ。いくら好きな絵でも、
それがどこの美術館にあるかなど気にしたこともなかったし、
同じ題材の絵を比較しながら見ることも知らなかった。

「ジェインは映研だったけど、
映画の絵コンテを描くために美術部にも出入りしてたんだ。
もっとも女のヌードをデッサンするのが目的だけどね。
だからヌードの課題が終ると、すぐに顔を出さなくなった。

「まるで見てきたようだな」
「見たのは教授だけど」
「教授はおまえのことを言ったんだよ。
この間も、モモはヌード撮影会というと目の色を変えて出かけていく。
だけどそれが終わると写真にもすぐに飽きてしまう。困ったもんだって」
それまで冷たい表情を少しも変えなかった少年の頬が、ほんの少し紅潮した。

リョウはまた二人の会話から取り残されたような気がした。
けれども少しも嫌な気持ちにはならない。
二人は仲の良い兄弟のようだ。年上の男のからかいに、
背伸びして答える少年の声の、ひそやかな甘さ。
ふと、昔似たようなシーンがあったことを思い出す。

キッチンのテーブルの片隅で、リョウは学校の宿題をしていた。
鉛筆を動かしながらも、耳は姉と弟のような二人の会話を捉えている。
その会話に加わりたい。でも口をはさむ隙がどこにもなくて、
結局黙っているしかない。
けれども、その完璧な時間を永遠に続けさせるためには、
自分の存在が必要だと知ってもいた。
私がこうしてずっと知らぬふりをしていれば、
この幸せな時間は終わることがない……。

だからモモが、不満げな表情で会話を中断させてしまったのが、
自分の望みとは裏腹に、
あっという間に宿題が終わってしまったあのときと同じようで、
残念でならなかった。

ジェインが受話器を取り上げ、
「誰か手が空いているか。運転を頼みたい」と告げた。
「まだ早い……」
モモは不満そうだ。だがジェインは取り合わなかった。
「おまえをそうしょっちゅう泊めるわけにはいかない」

「私も、そろそろ」
リョウも立ち上がる。
「リョウさんて案外察しが悪いね。
ジェインはあなたと二人きりになりたいんじゃないかな」
さっきの仕返しのように意地悪な光を目に浮かべ、モモが言った。

「それもお前のことだろう」
少しも動じないジェインの言葉が寂しい。
だが、心の底に思いが残っているにしても、
これ以上この場にとどまることは今のリョウには無理だった。

一人で地下鉄で帰るつもりだったのに、
モモにジャガーの後部座席に押し込まれた。隣にはジェインが座った。

モモを降ろしたあと、車がリョウのマンションの前で停まると、
ジェインは名刺をリョウの手に握らせた。
「よく考えて、もしアクターをやってみようという気になったら、
いつでもいい、電話をくれ」
名刺には、(株)オフィス・J 代表取締役 イ・ジェインと記されていた。

 

玄関のドアを開け、電気のスイッチを入れる。
今しがた別れた男が現実の人間とは思えなかった。
漆黒のジャガーも、ニュイ・サン・ジョルジュのワインも、
それからモモと三人で飲んだクリスタルも。

ワンルームの部屋には、
昼食に食べたカップラーメンの匂いが残っていた。
乱れたベッドの上に放り投げられたパジャマ、
枕の横には開いたまま伏せられた読みかけの本。
青白い蛍光灯に照らされた物たちに、違和感を覚える。
半日前に自分がこの空間に居た事の現実感が無い。

シャワーを浴びようと、
バスルームでシャツブラウスのボタンに手をかけた。
『この手が、ボタンを一つ、二つ、三つと、はずしていくのが見たい……』
耳の奥のジェインの声に促されるように、ボタンを、ゆっくりとはずす。

予想通り、眠りは訪れなかった。
窓が明るくなるとあきらめて起き出し、
カフェオーレとトーストで朝食をとった。
読みかけの本を手にしてみたが、文字は少しも頭の中に入ってこない。
仕方なくぼんやりとテレビを見る。
ニュース、天気予報、朝の連続テレビドラマ、バラエティー……。
11時まで待って、みずきに電話をかけた。

「なんだ、リョウちゃんか。今じゃなきゃだめ? 悪いけど……」 
リョウだとわかると、みずきの口調がとたんにぞんざいになった。
ジェインの提案をどう考えたら良いのか、
断ろうにも話し全体がよくわからないのだ、
だからなんでもいい、みずきの意見を聞きたかった。

切られないように受話器を握り締めて続ける。
「もうすぐお昼よ。そろそろ起きたら?」
「ねえ、久しぶりに電話してきてそれはないでしょう」 
そう言いながらも、リョウの真剣な声に気付いたのだろう、
「いったい何なのよ?」と先をうながす。
「みずきさん、クラブ・ジェインに転職するんですか?」 

答えるまでに、しばらく間があった。
「どうしてリョウちゃんが知ってるの」
「昨日、あのあと……」
「あの男、そんなにおしゃべりだとは思わなかったな。
で、私採用かどうかも言ってた?」

「さあ、それは教えてくれなかった」
「なんだ。それで、私の就職活動がどうかしたの?」
「実は……、私もアクターにならないかって……」
またみずきが黙った。
それはみずきとの間にこれまで流れたことのない、ざわついた沈黙だった。

「私……」 みずきさんに相談したくて、とリョウは言いたかった。
けれども不穏な気配を感じて、言い出すのをためらう。
みずきはリョウの言葉を待ったりはしなかった。
「じゃあ、あんたもモモと寝た? 
それとも女子大生は試験免除か。いや、もしかして相手はジェイン?」

「それは……」
「まあどっちでもいいけど」 
敵意と反感に満ちたたたみかける物言いに、
リョウは一瞬返事に詰まった。
だがそれが、忘れたはずの怒りを呼び覚ました。
「私がみずきさんと客とのセックスを想像すること、
何故ジェインさんに話したんですか」

「あ、あれか……。ごめん、ついしゃべっちゃったのよ。
質問に答えてるうちに、気がついたらするりと。
ジェインて不思議なのよね。
いつの間にか、これまで誰にも話したたことのないようなことまで話してる」
ああ、みずきもそうだったのか……。
リョウの怒りはとたんにしぼんだ。

みずきが、小さくため息をついた。
「とにかくごめん。で? 知りたいことは?」 
「みずきさんはなぜ”クラブ・ジェイン”に移りたいの? 
今の仕事は天職だっていつも言ってたのに。
”クラブ・ジェイン”は、今のところと何が違うのか……」

「もっと短い時間で、もっと稼げる。それ以外には何も違わない」
即座に、みずきは答えた。
「だから私、あいた時間で専門学校に通うつもり。
あそこだといいコネもできるって話だから、
そしたら大企業の社長秘書も夢じゃない。
5年もあればきっとなんとかなる」

みずきにとって”クラブ・ジェイン”は、デリヘルの延長線上にあるのだ。
そこは登り詰めた一つの山の頂上で、
あとはそこから一気に、別の山に飛び移るつもりらしい。
コネをつくる、おそらく彼女の最大の目的はこのことなのだろう。

「なかなかいい計画でしょう」 とみずきは言い、
それからいつもの口調で続けた。
「でもリョウちゃんは、やめときなさい」
「なんで?」

「なんでって。あいつら、カタログに女子大生の4文字が欲しいだけ。
ああいうところが似合う女子大生はヤマほどいる。
お金につられて一度足を踏み入れたら、
普通の世界に戻るのは死ぬほど大変なんだから。
リョウちゃんはちゃんと大学を出て、フランスにでも留学して、
立派なソムリエになんなさい」

「だけど……」
「私は反対」 
そう言われてしまうと、それ以上は何も訊けなかった。 

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