1-02 クラブ・ジェイン/リョウ

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「おはよ!」 
重い樫の木のドアを開けてみずきが入ってきたのは、翌日のことだった。
「いらっしゃい。夕べ来てくれるかと思った」
「ゆうべ?」 
「バーを開ける前、近くでみずきさん見かけたから」
「ああ……」

「お客がいい男だとたいてい見せびらかしに来るから、待ってたんですよ。
それとも恋人ですか?」
「まさか」

みずきがきれいにグロスの乗った唇を舐めた。
何かを言いあぐねるときのくせだ。
「まあ、客みたいなもんかな。
今度会うときにはリョウちゃんに見てもらえるようにするよ」

その約束は数日後に果たされた。
男が一人でバーに来たのだ。

「いらっしゃい」
リョウは男の前に冷たいおしぼりを置く。
男は長い指で小さな円筒形にたたまれたタオルを弄んでいるが、
それを広げようとはしない。

「待ち合わせなんだ」
みずきは遅れてくるだろう。
リョウに男を観察させるために。

生成りのジャケットの袖口から、黒いシャツが覗いている。
ネクタイはしていない。髪は肩にかかるほどの長さだ。
マスコミ関係か、あるいは夜の仕事。
リョウはいつもの癖で、すぐに客の観察を始める。

年齢は30代半ば。厚い胸はジムで作られたものか、
それとも何かスポーツでもしているのか。
ゴルフは、似合わない。似合うのは、泳ぐ姿だ。
たとえば、バタフライ。完璧な筋肉と全身のばねの力で。

 

「ビールは何がある?」 
「ギネスと、モレッティだけです」 
「めずらしい品揃えだな」
「すみません、マスターが気まぐれで」
「じゃあシェリーは?」
「サンデマンなら」
男が頷いた。

クリスタルのショットグラスを取り出す。
シンクの桶に入れられた四角い氷の塊を、アイスピックを突き刺して割り、
手に持ってさらにカットしていく。

その間ずっと、男の視線がリョウの手元に注がれていた。
その視線が気になって、リョウはピックを手のひらに刺さないようにと、
神経を集中させなければならなかった。

 

男はゆっくりとグラスを口を運んでいる。
氷は必要なだけカットしてしまったし、他にすることもない。
音楽のボリュームを上げようかとも思ったが、かえって白々しいだろうとやめる。

「お相手の方、遅いですね」
「僕が早く来たんだ。いいワイン・バーだと聞いたから」

それならシェリーなどではなく、 シャンパンでも頼んでくれてもいいのに。
「残念ながら、シャンパンって気分じゃなくてね。赤には少し時間が早すぎるし」
男がリョウの頭の中を読んだように言った。

「実は僕もレストラン・バーを経営している」
いつ取り出したのか、男は店のカードを手にしていた。
「ここからだったらタクシーですぐだよ。よかったら一度覗いてみて」

Osteria Sogno dei Sogniとシンプルな書体で記されている。
「オステリア・ソーニョ…」
「デイ・ソーニ。夢の中の夢、と言う意味」

それから男は、カードの裏にイ・ジェインと、
流れるようなクセのある字で自分の名を書いた。
みずきは現れず、グラスは空になった。もう一杯シェリーを注ぐ。

常連の客がカップルで現れたので、リョウは男の前から離れた。

カウンターの中というのは不思議な空間だ。
並んだ客の視線が集中する舞台のようなときもあれば、
中にいる人間が背景に溶け込むように、見えなくなってしまうときもある。

舞台の中心から背景への切り替えは、案外簡単だ。
客の視線から体を横に半分移動させる、それだけでいい。
すると客が肘を乗せているカウンターが、
ひときわ明るいスポットライトに浮かぶ舞台となる。

今、光を浴びているのは、みずきの連れの男だ。
常連客が注文したワインの栓を開けながら、リョウは男の観察を続ける。

整った顔立ちだ。
なめらかな顎と適度なふくらみでカーブを描く唇のラインが、
男の第一印象を甘いものにしている。
だが角ばったメガネの奥の切れ長の目は、顔立ちの甘さを忘れさせるほど鋭い。

肌の色は白く、もしも精悍な肉体がなかったら、病的な感じがしたかもしれない。
物腰は柔らかく、粗野なところは少しもない。
自信に溢れた、成功した男の余裕が感じられる。
それはこの若さにしてはめずらしいものだ。

早くに成功を手にした男には、まだ手に入れたものに戸惑っているような、
それでいてそれを誇示せずにはいられない、ぎらぎらした屈折があるが、
この男は成功を手に生まれてきたかのように自然体だ。
そこまで観察したとき、男の携帯が鳴った。

「そうか、仕方ないな。今からそっちに行く。
クライアントには君から連絡をとっておいてくれ」
クライアントというからには、レストラン以外にも別の仕事もしているのか。

「すまないが、急に仕事が入った。
みずき君が来たら、オステリアにまわるように伝えてくれ」

男はリョウの返事を待たずに立ち上がり、一万円札をカウンターに置いた。
あわててレジをあけ、銀行で下ろしてきたつり銭がまだバックの中だったと気付く。
リョウが顔をあげると、もう男の姿は消えていた。

 

男が帰って15分ほどたったころ、ようやくみずきが顔を出した。
「オステリアに来いって? ここのほうが落ち着くんだけどな。
ま、一杯飲んでからでいいか。カンパリソーダ。ソーダは少なめね」
みずきはいつも、一人だろうと客と一緒だろうとビールを頼むのに、
カンパリとはめずらしい。

リョウは男が、まるで陽が沈んだあともまだ残る光のように、
自分の気配を置いていったのだと思った。
みずきがいつもよりさらに華やいで見えるのも、その光に照らされているからだと。

久しぶりにみずきの手に余る客かもしれない。
それに、なぜあんな男が秘密クラブで女を調達しなければならないのか。
そのことが不思議だったが、
むしろ女に絡みつかれれることのないその場限りの関係のほうが、
男には似あうような気もする。

みずきのサルスベリの花の色の唇が、同じ色の液体を優雅に飲み干す。
夏はまだ始まったばかりで、シンプルな黒のニットから覗く胸の谷間に、
日焼けのあとは少しもない。

完璧だ。
たとえそれが仕組まれたものだとしても、
完璧なものに人は抗う事ができない。
みずきはこの外見のように、完璧なセックスを客に与えているのだろう。
"ハケン"とみずきが呼ぶ彼女の勤め先は、表向きは高級なデリヘルだが、
実態はコールガールを抱える秘密クラブだった。
 

「ね、あいつどう?」
「よくわからない。ほんの30分ぐらいしかいなかったし。
お金もあって、ルックスもいい、大人だし、信頼もできそう。
だけどあまり人に気持ちを許さないというか、偉そうってわけじゃないけど、
なんて言うか、少し近寄りがたい感じがした」
「そういうことじゃなくて、いつもの、ほら……」

観察は、みずきと客がどんなセックスをするかを想像するためだ。
あとでその想像が実際とどれほど合致していたか、
あるいはどれほどかけ離れていたかを、ビールのつまみに語り合う。
知らない人間が聞いたら悪趣味だと言うだろう。
だが、いつからともなく始まったこの習慣が、
リョウとみずきの間に奇妙な共犯関係を築いた。

みずきはリョウより8歳年上だったが、
そんなことはどちらにとっても問題ではない。
みずきの生きる世界はリョウの知らない、だがリアルな手ごたえを与えてくれる世界で、
一方みずきは、歳若いリョウがなんのひやかしも非難もなくみずきの話を聞くことに、
得がたい聞き手を得たと喜んだ。

「それは、みずきさんとお客が並んでないと。
一人づつじゃイメージが湧かないわ。
ほら、そんなこと言ってないで、上客なんでしょ、早く行ったほうがよくない?」

確かに、ここのほうが落ち着くというのみずきの気持ちもわかる。
近寄りがたい男と、その男の本拠地、つまり敵陣で緊張して会うよりは、
いつもの、狭い、自分の縄張りで、みずきは男と対したかったに違いない。
みずきは、リョウにせかされてようやく腰をあげた。

 

 

 

 

明け方、久しぶりにあの夢をみた。

薄いブルーの靄が部屋を覆っている。
リョウはベッドに寝ていた。10歳の夏だ。
「リョウ?」 ドアの外から兄が呼んだ。
返事をしたいのだが声が出ない。

いつ入ってきたのか、兄はベッドに腰掛けている。
その顔はぼんやりしていて、広い肩も髪の毛も、
逆光に照らされた黒っぽいシルエットでしかない。

「熱出したんだって?」 
声だけはリアルだ。こくりと肯く。
私にさわって……、頭の中で念じると、兄の手のひらが額に伸びる。

「ずいぶん熱いな」 手はひんやりとしている。
「気持ちいい。ずっと触っていて」 声が出た。
今日の滑り出しは上出来だ。
この調子で兄を引き止めなければならない。

「プール、ママと僕だけで行ってもいいか?」
「私も行く」 
反射的にリョウは起き上がろうとした。
引き止められないなら、付いていかなければならない。
だがからだを起こそうにも、兄の手のひらが額を押えつけていて身動きが出来ない。

「だめだよ。リョウは寝てなきゃ」 
「ユウにい、じゃちょっとだけ一緒に寝て」 
この言葉は幼い、だが女の知恵だ。
「しょうがないな」 

病気の妹には逆らえない、兄がそう思っているのがわかる。
今度ばかりは成功するかもしれない。

隣に横たわる肉体から、かすかに汗が匂う。25歳の男の匂いだ。
幼いころからその膝で遊び、背中におぶわれ、胸にじゃれた兄の匂いだ。

リョウはなつかしい匂いに安心して、甘えた声を出す。
「ユウにい、熱いの。パジャマ脱がせて」
リョウが頬をおしつけていた胸の感触が、
Tシャツの綿の布からいつしか素肌になっている。

成功した。いいぞ! 
幼い自分をリョウは励ます。
「こうするとね、気持ちいいの」 

裸の腕で兄のからだにしがみつき、裸の両足をその腰にからめる。
足のつけねのふくらみを押し付け、こすりつける。
兄はなにも言わず、大きな手で、リョウの背中をなでている。

もっと下まで、その手をもっと下まで……。
リョウは念じる。
だが今度は、思いは届かなかった。

「ユウ君、そこにいるの?」 
母の声に、するりと兄がベッドを抜け出す。
水着姿で背中を向けた兄のシルエットをリョウは諦めと共に見つめる。

「リョウ、ひと泳ぎしてくるだけだから。な、いいだろ? 
お土産買ってくるよ、何がいい?」 
振り向きもしないその背中から兄の声だけが届く。

「アイスクリーム」
10歳の少女はくぐもった声で答える。

違う! だめよ! その答えは違う!

いつのまにか母も部屋にいる。シンプルな黒のワンピース型の水着姿だ。
兄が半裸でまたがったオートバイの後ろに、母も水着姿でまたがる。
母は腕を兄の腰に回し、うっとりとした表情で、その背中にからだを預ける。

初めて見る母の表情に、夢の中でリョウは見とれてしまう。
だからオートバイのエンジン音にも気づかない。
音もなくオートバイが走り去ったあとに、母のその表情だけが残る。

だめっ! いっちゃだめだっ!

自分の出した声でゆっくりと夢から浮上する。また、失敗だった。
何故母に見とれて声が出なくなってしまうのか。
なぜアイスクリームなんてマヌケな答えを発してしまったのか。
ママの車で三人で行こうよ! 何故、そう言えなかったのか。 

リョウは何度も同じ夢を見るうちに、いつしか半覚醒の状態で、
夢の捏造を試みるようになっていた。
だが捏造の結果は、いつも失敗だった。
いつも不本意に、夢は同じ結末を迎えてしまう。

 

午前8時、部屋にはすでに熱がこもっている。
この暑さのせいで、夢を見たのだろう。
一瞬だけ、昨夜のみずきの客のことが浮かんだ。
顔が似ているわけではない。
だが背格好や全体の雰囲気が、兄を思わせる男だった。

ああそうだ、今日は私の誕生日だった。
だから兄が来てくれたのだ。
20歳、やっと20歳になった。
今の私なら、ユウにいを引き止めらることが出来るだろうか。
それともやっぱりユウにいは、ママと行ってしまうのだろうか。

 

兄は、実際には一緒に寝てくれたわけではない。
ただ母と出て行ったのだ。
それからリョウは眠った。
そのあとのことが夢に出てくることはない。
だがそのあとに起こった事のほうが、むしろ夢のように思える。

 

目覚めると部屋は真っ暗で、不快なけだるさが全身を覆っていた。
喉はからからで、冷たい麦茶が欲しかった。
ママー、とリョウは母を呼んだ。

突然、リビングの電話が鳴り出した。
母か兄が出るだろうと待ってみたが、電話は鳴り続けるばかりだ。
それでようやく誰も居ないのだと、リョウにはわかった。

ゆっくりとからだを起こし、足を床におろしたとき、電話は鳴り止んだ。
再び電話が鳴りはじめたのは、リョウが台所までよろよろと歩き、
冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出したときだ。

「リョウか!」 父だった。だがその声がいつもと違う。
他の人かもしれないとリョウは思い、すぐに、
でも自分をリョウと呼ぶのは父と兄だけだと気づく。

「おとうさん?」
「ああ……。いいか、リョウ……、よく聞くんだ。
もうすぐタクシーが家に着く。
それに乗れば運転手さんが病院まで連れて行ってくれる。
私もこれから向かうから、たぶんおまえと同じころに病院につくはずだ」

「病院?」 
「そうだ、ママとユウが交通事故で……」 
父の声が一瞬遠のく。父が何を言っているのか、リョウには理解できない。
「リョウ! 聞いてるか? リョウ……」

そのあとの記憶は切れ切れにしか残っていない。
パジャマを着替えたのも覚えていなかった。
気がつくと病院のベッドを、父と見つめていた。
白い布で覆われた人の形をした盛り上がりが兄だとは、どうしても思えなかった。

兄の葬式に出たはずなのに、リョウはそれすら良く覚えていない。
風邪がぶりかえして、朦朧としたまま数日が過ぎ、
熱が下がるころには全てが終っていたのだ。
母は重態で、ずいぶん長い間意識が戻らなかった。

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