1-01 クラブ・ジェイン/リョウ

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リョウが小学生になった年、兄は大学の三年生だった。
夏休み、父は仕事が忙しいと一度も別荘に姿を見せなかった。
気難しい父がいない解放感を、誰もが感じていた。
毎日がうきうきと楽しかった。

リョウの誕生日は海岸の岩の上で祝った。
母が焼いたケーキ、兄の得意のサンドイッチ、冷たいトマトのスープ。
どれも父が連れて行ってくれるおしゃれなレストランの料理より、
ずっと美味しかった。

母は欲しかった人形をくれた。それも嬉しかったが、
兄がビキニの水着を贈ってくれたことが、
何よりリョウを喜ばせた。

何もかも覚えている。
海岸の小石に混じる小さな巻貝を三人で競争して拾ったこと、
兄に教わって泳げるようになったこと、
ビーチマットに寝そべると一段と高くなった波の音、
そして夜の海を照らしていた月…。  

その夏、兄は免許を取ったばかりなのに、母に代わってずっとハンドルを握った。
いつものように東海岸を下るのではなく、
たくさんのトンネルの合間に小さな村やドライブインが時折現れる、
天城越えの道を選んだ。 

それまでのルートでは、リョウは海が現れる前にドライブに飽きてしまい、
たいてい眠っていた。

時折うっすら目を開けると、
見慣れぬ海の色が広がっていたり、
水に岩が荒々しく突き刺さっていたりした。
夢の中の景色のようなリフレインを、やがて不快な振動が破る。

母が片手をリョウに伸ばし、揺り起こしているのだ。
母はいつも、海沿いにヤシの木が並ぶ白浜のあたりでリョウを起こす。
ほら、リョウちゃん、もうすぐ下田よ、と。

でもあの夏のドライブでは、
リョウは初めての兄の運転に興奮して、一度も眠らなかった。

濃い緑が頭上を覆う曲がりくねった涼やかな道、
窓を開けると流れ込んできた青臭い風の匂い、
それから白っぽく陽射しを跳ね返す山の稜線と、
光を吸い込んだ暗い斜面のまぶしさ。 

昼食を食べた蕎麦屋の隣は土産物屋で、
肉厚のしいたけや、近所のスーパーでは見たこともない、
小さなごつごつした緑のごぼうのようなものが並んでいた。 

店頭の看板の、
コーンの上に盛り上がったアイスクリームは白ではなく薄い緑色で、
母と兄はその緑のアイスクリームを食べた。

『私も同じのにする!』 
与えられた白い普通のものが気に入らなかった。
『じゃあ食べてみろよ!』 

兄が突き出しものを舐めると、
甘みの中に鼻に抜ける辛味があって、
すぐに意地を張ったことを後悔した。

けれども、兄の横で母が勝ち誇ったような目をしたのが悔しくて、
無理をしてもうひとくち舐めた。
するとひときわ辛みが集中しているところを、舌がすくってしまった。

泣きたくもないのに涙がにじみ、
それで本当に悲しくなって涙が溢れた。

『ママ、水だよ、水!』
兄が騒ぎ立てても母は少しもあわてず、
バッグから麦茶のペットボトルを取り出し、リョウに飲ませた。

細い道を下っていくと両側に民家が増え、
やがて車は信号で止まった。

正面が妙な具合に開けている。
それまでずっと周囲は山か谷で、
空ははるか頭上にある天井のようだったのに、
目の前に現れた空間は一面の空なのだ。

いや、空じゃない、海だ! 

海は耐えてきた果てにたどりついた楽園のように、
どこまでも明るく広がっていた。
ヤシの木も現れた。

暗がりから押し出されたような喜びに、
甘さの中にあった痛みを伴う辛みを、リョウは忘れた。
忘れたはずだった。  

下田の大きなショッピングセンターで、
食料品を大量に買い込んだ。
ここではスーパーでさえ見たこともない魚を売っていると、
母は嬉しそうに、いつも同じことを言う。

車はそれから少し海から離れて走り、弓ヶ浜に向かう手前で右折すると、
観光地の雰囲気はとたんに薄れ、
少し寂しい、そして厳しい海岸線が現れる。

下流と書いて“したる”と読む、もうすぐ消滅しそうな集落を過ぎ、
知らなければ見落としそうな細い道を、海に向かって入る。
するとようやく別荘に着く。 

周囲にはほとんど家らしいものはない。
大きな岩山の向こうに民宿が一軒、
その先には営業を辞めて廃墟のようになっているドライブイン。

そこを過ぎると花を栽培する畑が山の斜面に続き、
少し走ればもう石廊崎だ。 

別荘はさして大きくはない。
父はどんな気まぐれからか、不動産屋を営んでいる親戚に勧められ、
安く売りに出ていた温泉付きの家を買い取り、改築した。

当時はまだ不動産高騰の前で、
それほどの金額ではなかったのだと言う。
値上がりを見込んでの買い物だったのかもしれない。

だが母が気に入り、年に何回も訪れるうちに、
売るタイミングを逃してしまった。  

玄関からリビングに入り、
海に面した南側のカーテンを左右にひらく。
もどかしそうに兄がガラス扉の鍵をはずし、雨戸を開ける。

ウッドデッキの下はすぐに海に落ちる崖で、
視線が自然に吸い寄せられるのが蓑かけ岩だ。

小石の浜を洗う波の音が、潮の香りと一緒に登ってくる。

この波の音が、リョウは好きだった。
二階の寝室でベッドに入り、目を閉じると、
波の音は一層高まり、耳に緩やかなリズムが永遠の時を刻む。

波の音は子守唄のように、リョウを安らかな眠りに導いた。
家では一人では寝付けないのに、
下田では波の音と共に、
リョウは自分の部屋で一人で眠ることができた。  

夜、窓から眺める海も好きだった。
水面に顔を出した蓑かけ岩が月の光に浮かび上がり、
岩を取り囲む海もきらきらと光を放っている。 

あの夜も満月だった。
なぜかふっと眼が覚めて、カーテンの陰から外を覗いた。

雲はなかったから、丸みを帯びた小石が連なる海岸や、
浜に打ち付けて砕ける白い波がはっきりと見えた。 

波の音に消されて、石を踏む足音は聞こえなかったはずだ。
だが、ときに走り出したり、海に入ってみたり、
戯れながら海辺を歩く二つの人影から、
足音が届いた気がした。笑い声さえ、聞いたと思った。

月が落とす影は重なりあい、離れ、また重なった。
重なったまま、波に洗われていた。

この年の記憶が鮮明なのには、別の理由もある。
写真が少なかったのだ。

ある日持ち帰った袋から、兄はたくさんの写真を取り出した。
それらを母と一緒に見た覚えがあった。

だがあとでアルバムを引っ張り出してみると、
なぜか母と兄のものがなかった。
二人が一緒のものはもちろん、一人ずつで写っているものもない。
あってもどれも不鮮明だったり、景色の中にまぎれるほど小さかったりした。

おかしい、とリョウは母に尋ねた。
だが母は、
リョウちゃんが捜してるのはその前の年の写真じゃないのと、
取り合わなかった。

違う、確かにアイスクリームに舌を突き出している、
兄のアップの写真があった。
緑のアイスクリームを食べたのはあのときだけだ。
なのにそれらが一枚もない。

きっとあんまりうまく映っていなかったから、ユウくんが捨てたのよ、
続けて母はそう言った。 

翌年か、あるいはその翌年だったか、
それらの写真をリョウは兄の部屋で見つけた。

消しゴムがどこかにいってしまい、借りようと思ったのだ。
兄はおらず、机の上に消しゴムは見あたらなかった。
リョウは引き出しを開けた。そこにも消しゴムはなかった。

奥にひとつぐらいころがっていないかと、引き出しを大きく引いた。
すると手紙や葉書が入っている紙の箱があり、
その一番上に写真屋の名前の入った袋が乗っていた。

なんとなく、予感のようなものがあった。
だから中から出てきた写真が、
あの夏の下田の母と兄であっても、驚かなかった。

 

    * * *

 

みずきを見かけたのは、バーを開ける時間を5分ほど過ぎた頃だった。
足早に地下鉄の階段を登りきると、少し先に見覚えのある後姿があった。
人ごみを掻き分けて追いかける。
だが声をかけるのはやめた。男と一緒だったからだ。

みずきが男に何か言い、男は横顔を見せた。
背の高い男だった。
シルバーグレーのジャケットを着ている。

『背広はね、ユウくんぐらい胸の厚みがないと、格好がつかないの。
本当に似合ってるわ』 
突然、母の言葉がよみがえった。

二人との距離を保って後ろを歩く。
みずきの客だろうか。
だとしたらこのあと、バーに連れてくるかもしれない。

だが、二人はバーに向かう脇道を通り過ぎると、
すぐに人の波に飲まれてしまった。

母がバーにつけた名前は『ニュイ・ラ・メール』、
『夜と海』、あるいは『夜の海』とも取れる。
常連客は短く、『バー・ニュイ』と呼ぶ。
カウンターと壁際のベンチの前にテーブルが二つ並ぶだけの、小さな店だ。

しばらくドアを開け放して、淀んだ空気を外に出す。
6時までに掃除を済ませ、食洗機からグラスを取り出して棚に並べる。
斉藤がやってくるのは8時。それまでは一人で客の相手をする。

と言っても早い時間にやってくる客は少ないから、
簡単なつまみの用意をしたり、残り物で腹ごしらえをしたりもする。
休みは日曜日だけ。
閉店時間はあってないようなものだけれど、リョウは10時までの約束で、
最後の客が帰るまでは斉藤の担当だ。

以前は近くの洋食屋で夕食時だけウェイトレスをしていた。
レストランと呼ぶにはあまりに庶民的な店だったが、
昔ながらの味を懐かしむ中年客と、
レトロな雰囲気に引かれてやってくる若者で、結構賑わっていた。

週に3日のバイトだったから、大学に通う負担にもならなかった。
授業料も、入学を機に一人暮らしを始めたマンション代も父が出してくれていたし、
こずかいの足りない分を補うには充分だった。
半年前に斉藤から電話がなければ、リョウは今でもあの店で働いていただろう。

「久しぶり。もうすぐ二年になるな……」
「ごめんなさい、長いこと電話もせずに」

斉藤は、母が7年前にワイン・バーを開いたときから、
経営にもワインにも疎い母に代わってバーを切り盛りしている。
中学・高校と、バーの片隅がリョウの勉強部屋のようなもので、
博識の斉藤にはよく宿題を手伝ってもらった。

別居した父とはすでに疎遠になっていたから、
ある時期斉藤はリョウの父親代わりの存在でもあった。
それなのにリョウは、長い間バーに顔すら出していなかった。

大学生になったときに、一人暮らしをめぐって母と対立し、
たまっていた母への反発が一気に噴出して大喧嘩となってしまい、
それから家に帰らなくなり、同時にバーからも足が遠のいていたのだ。

「ママがどうかした?」 
リョウがまず思ったのはあれから会っていない母のことで、
どこか危なっかしいところのある母のことが、本当はずっと気になっていたのだ。

「ママは大丈夫だよ。あい変わらす若い男のあとを追っかけてる」
「斉藤さんにはやっぱり迷惑ばかり……」
「リョウちゃんとけんかした後のうつ状態よりずっといいさ」

斉藤の話は、バイトが急にやめてしまい、
なかなか次が見つからずに困っている、
よかったらバーを手伝ってくれないか、というものだった。

斉藤はソムリエの専門学校で講師もしているから、
いかに小さな店とは言え、一人では手に余るのだろう。
親子ともども世話になっている斉藤の頼みを断れるはずもない。

母と顔を合わせずにすむのならと言う条件で、リョウはバーで働き始めた。
ある夜、早い時間にやってきた母と照れ笑いで和解が成立すると、
斉藤は新たなバイトの募集も口にしなくなった。
 

 

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