2-06 クラブ・ジェイン/ルゥ

jein_title.jpg

 

午前10時、約束のカフェにすでに男は来ていた。
よう! と立ち上がり、ジェインの胸にこぶしを突き出す。
そのこぶしをジェインは手のひらで受けた。
男はジェインと同じくらいの背丈だったが、
さらにがっしりとした体つきをしている。

ジェインが男の隣に座り、リョウは正面に腰を降ろした。
「写真のお袋にそっくりだな」
いきなりくったくのない口調で男は言った。それがスタートの合図だった。
「よろしく、お願いします」
ああ、と男は照れ笑いを浮かべる。

「実は俺、ジェインのクライアント第一号なんだ」
「聞いています」
男が名刺を差し出した。そこに書かれた名を、リョウは読んだ。
「シライさん」 
「シライさんはないだろう」
「すみません、あの……、お兄さんは、独身ですか?」
「そう、と言いたいけど、実は違う」

子供もいるのだろうか。
シライの家庭について、ジェインはなにも話してくれなかった。

「ジェインさんとは、大学がいっしょだったとか」
「そうだ。あの頃、なつかしいよな。
実はルゥに頼みがある。よかったら学食に連れていってくれ。
ボリュームだけは満点のまずい飯を久しぶりに食ってみたい」
「ええ……」 

リョウとシライの会話が滑り出したのに安心したのか、ジェインが立ち上がった。
思わずリョウはすがるように彼を見る。ジェインは微笑み、
そっとリョウの肩に触れた。
「大丈夫。君も楽しんで」
そう言うと、シライには片手を上げるだけの挨拶をして、
すたすたと歩いて行ってしまった。

「相変わらず忙しそうだな」 
シライはジェインがいなくなると、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
夕方まで付き合ってくれと言われ、カフェを出る。

家族連れやカップルで賑わう歩行者天国は、少し歩きにくかった。
急に秋めいた涼しい日が数日続いていたが、
今日の陽射しは行く夏を惜しむように強い。

友人同士のように二人は歩いた。
時々リョウの腕が、シライの腕に触れた。
だが彼はリョウの手を取ろうともせず、肩も抱かなかった。

歩行者天国のはずれで客待ちしていたタクシーに乗り込むと、
シライはホテルの名前を口にした。
いきなりホテルに行くとは思っていなかったので、リョウは困惑した。
それに気づいただろうに、シライは知らぬ顔をしている。

大きなホテルの地下には、ブティックが数軒並んでいた。
そのなかの、リゾートウェアと水着を並べている一軒で、
シライはリョウのために水着を選んだ。
一枚は派手な花柄のワンピース型で、
もう一枚はエメラルドグリーンのビキニだった。

試着室を覗かれるかとも思ったが、
彼はサイズはどう?と、外から声をかけただけだった。
どちらが気に入ったかとも訊かず、シライはそれを二枚とも買った。

最上階のプールに連れて行かれ、
ようやくリョウにもシライの意図がわかった。
「泳げる? もし泳げなかったら、俺が教えてやる。
ひと泳ぎしたあとはビールと中華、いやビールとインド料理なんてのもいいな。
どっちがいい?」

「食事だけは、二つに一つを選ばせてくれるのね」
ついリョウは憎まれ口をたたいてしまった。
クライアントが主導権を握るのは当然としても、
少しもこちらの意向を聞いてくれない事に、少し腹をたてていた。
タクシーでホテルの名を出したときのリョウの困惑を、
シライが楽しんだのも気に入らなかった。

「ルゥとどう過ごそうか、ずっと考えてた。
これが俺には最良の選択に思えた。
一緒にプールで泳ぐ、そのあとはビールで乾杯。
もしいやなら映画に行ってもいいし、ショッピングに付き合ってもいい。
昼は学食でも蕎麦屋でも焼肉でもフレンチでもなんでもいい。
でもビールだけは飲めるところにしてくれ」

ずっと考えた末の、最良の選択……。
真面目なのかふざけているのかわからないが、
あまり逆らってはまずいだろうと、リョウは少し反省した。
なんと言っても自分はアクターなのだ。

それに、シライのぶっきらぼうな物言いに、
いつの間にかリョウの気負いが消えていた。
最初は兄と呼ぶのに違和感があったのに、それも気にならない。

今までのように無理をして、精一杯背伸びしなくてもいい。
背伸びした果てに、いつも自分の幼さに打ちのめされていた少女が、どこにもいない。
それは年上の男を前にして、初めてのことだった。

「お兄さんがこんなに強引な人だとは知らなかった。
いいわ。じゃあ競争しましょう。泳ぎは得意なの。
勝ったほうが好きな昼食を選ぶ」

リョウはワンピース型の水着を身に着けた。
シライはひとこと似合うよと言うなり、いきなりプールに飛び込んだ。
ボディビルダーのような身体が、豪快に水を切る。
必死に追いかけても、すぐに離されてしまう。
リョウのかなう相手ではなかった。

途中でリョウはあきらめ、
のんびりと、気持ちよく水に乗れるスピードを保った。
何回ターンしたか数えることもせずに、
疲れるまで泳いでプールから上がった。
シライはリョウのことなど忘れたようにまだ泳ぎ続けている。

タオルで水をぬぐい、チェアに横たわる。
ミネラルウォーターに口をつけて飲んでいると、いきなりそのボトルを奪われた。
ボトルから水が胸に飛び散る。

「もう…… 冷たいじゃない」 
リョウは怒ってみせる。
シライは妹をからかったり、少し意地悪なことをして喜んでいる兄なのだ。
「ビールがまずくなるぞ」
こんなやりとりで、さらにリョウの気持ちは軽くなった。
半裸の逞しい肉体の前に水着姿で立っていても、男と女という気がしない。

もう一度、こんどは競争でなく一緒に泳ごうと、シライが誘った。
プールの真ん中でシライが潜ったので、リョウも彼に従って身体を沈める。
水の底からシライの手が伸びてきて、リョウの両腕を掴んだ。
そっと引き寄せられる。

覚悟を決めて待ち受けると、シライの顔が近づいてきた。
水の中でくすりとシライが笑ったように見えた。
それから唇をリョウの額に寄せると、すぐに腕を放した。
男の腕から逃れるように、リョウは残りの半分を泳いだ。

結局ホテル内の中華レストランに腰を落ち着けた。
中華を選んだのはシライではなくリョウだ。
本当に喉がからからで、心の底からビールが欲しかった。
唐辛子の利いた、ごま油の膜で覆われた肉や野菜が食べたかった。

飲み、食べ、大学の友人たちのことやゼミの話を、リョウは語り続けた。
切れ目なくしゃべりながら、ホテルの部屋に誘われたらどうしようかと考えた。
ためらいがちな水中での接触に、もしかしたらと思ったのだ。

ジェインには、もしクライアントからセックスに誘われても、
自分で断らなければならないと言われていた。
アクターとしてクライアントの気持ちを考えながら。

シライには本当の兄のような親しみを感じ始めていたので、
できるならこのまま関係を深めたかった。
けれどもこの日、シライはリョウを誘わなかった。

マンションの前まで送ってもらったのは、軽率だっただろうか。
少し手前で降りるつもりでいたのに、
タクシーを停めるのにちょうど良い場所もなく、つい玄関前まで来てしまった。
シライに対して、警戒心が湧かなかったのだ。

「また連絡する」 
シライが封筒を差し出した。
初めて受け取る報酬に、リョウは戸惑う。
何をしたわけでもない。ただ一緒に泳ぎ、おしゃべりをした。
水着をプレゼントされ、食事と酒をご馳走になった、それで充分なのだ。
だがリョウは、臆す気持ちを押し隠して封筒を受け取る。
中をあらためる気にはなれず、ぎこちなくバッグに放り込む。

タクシーを見送り、登録された番号に電話をかける。
「今、終わりました」
「お疲れさま。彼からも電話があったよ。気に入ったと、言っていた」
「もうですか?」 
今別れたばかりのシライが、いつジェインに電話をかけることができたのだろう。
「泳いだあと、プールの更衣室から」 

部屋にもどってぼんやりしていると、またジェインから電話があった。
もうすぐマンションの前に着くと言う。
エレベーターを出ると、玄関には艶やかな黒のジャガーが停まっていた。
オステリアのギャルソンが降りてきて、後ろのドアを開けてくれる。
奥には携帯電話を握ったジェインがいた。

「乗って。少し走ろう」
ジェインの隣に座ると、
ギャルソンは助手席に置かれたクーラーバケツからシャンパンの瓶を取り出した。
まずひとつのグラスを満たし、リョウに渡してくれる。
それからジェインにも。

驚くリョウに、ジェインは微笑を浮かべた。
「約束のクリスタルだ。
乾杯しよう、アクター・ルゥの初仕事に」
そう言ってグラスを掲げた。
静かに、ジャガーが滑っていく。
エンジンの音は、四方から流れるジャズよりも、さらに低い。

「疲れた?」
「いいえ、シライさんのおかげで、私、ほとんど気を使うこともなくて。
楽しい時間でした」
「彼は本当にいいやつだから」
シライもジェインのことを、同じように言っていた。

「仲がいいんですね」
「僕たちのこと、何か聞いた?」
「ええ、少し」
いつのまにか街路のネオンが消え、車のスピードが上がっていた。
信号で止まる事もない。
だがどこを走っているかなど、リョウにはどうでもよい。

『ジェインは映研、オレはアメフト、だから本来俺たちにはなんの接点もなかった』
知り合ったきっかけは、学校側からの依頼で、
アメフトの試合をジェインがドキュメントに撮ったことだと、シライは話した。

『あの年、チームはかなりの成績を残すんじゃないかと期待されていた。
ジェインはただ試合だけを撮るのではなく、
練習からチームの姿を追った。
だからキャプテンをやっていた俺とは自然に親しくなって。
スポーツと映画、経済学部と芸術学部、興味も進路もまるで違う、
同じなのは背丈ぐらいなのに、なぜか俺たちはウマがあった』

「ずいぶん昔のことだ」
過去を語るシライの目は時間を遡って、きらめく青春のワンシーンを見ていた。
なのにジェインはあまりそのことに触れたくはなさそうだ。

「私は小学生だったわ」
どんなに背伸びしても、
小学生は大学生と同じ時間を共有することは出来ない。
いくら追っても、けっして追いつかない悔しさが、リョウの中に甦った。

「その頃、私も大学生だったらよかったのに。
大学生のジェインさんとシライさんに会いたかった」
リョウの空になったグラスと自分のグラスと、
ジェインは器用に片手に二つのグラスを持ち、両方をシャンパンで満たした。

「ジェインさんご存知ですよね、兄のこと。
私は兄が好きでした。兄はいつも言っていた。
リョウはだんだん僕に追いつくんだよって。
だから私、小さい頃は信じていたんです。兄は待っていてくれる、
今はこんなに離れているけれど、でもいつか同じ歳になるって……」 
それで私、ユウにいと結婚するんだって……。

胸に、何処から湧いてきたのかわからない哀しみがせりあがる。
それを液体に溶け込ませるために、急いで残りのシャンパンを喉に流し込む。
「小学生になったあの頃、少し疑い始めました。
もしかしたら、ずっと私は追いつけないのかもしれないと」

あれは兄の誕生日だった。
たくさんローソクが乗ったケーキ、
そのローソクが毎年増えていくことを、初めて知ったあの日。
それなのにもうすぐ、リョウはあの兄の歳に追いついてしまう。
そして、追い越してしまう。

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*